5.置いてけ堀
朝、目が覚めると一九は知らない部屋で寝かされていた。頭がグラグラして、喉がカラカラに渇いている。隣りを見ると月麿が大口を開けて鼾(いびき)をかいていた。
一九は昨夜(ゆうべ)の事を思い出してみた。
駒吉は可愛い芸者だった。俺が書いた黄表紙やら滑稽本をかなり読んでいて、もう前から、俺の事が好きだったという。うまく口説き落としたはずだった。宴がお開きになって、村田屋の旦那や京伝先生たちが帰り、草津に向かう津の国屋の旦那と都八(とっぱち)、俺と月麿はそれぞれ相方の芸者と一緒に残ったのは覚えている。俺は駒吉を連れて泊まり部屋に移ったはずだった。本当なら、駒吉と一緒に寝ているはずなのに、どうして、月麿と一緒に寝ているのか、まったく覚えていない。調子に乗って、つい、飲み過ぎてしまったようだ。
「おい、起きろ」
揺り起こすと月麿は寝ぼけて、ニヤニヤしながら夢吉の名を呼んだ。
「まったく、幸せな野郎だぜ」
一九は月麿をたたき起こした。
「おう、あれ、ここはどこだ」
「そんな事ア、知るか」
「あれ、夢吉‥‥‥いや、違う、宮次だ。宮次はもう帰(けえ)ったのか」
「なにを言ってやがる。どうやら、村治の旦那にはめられたらしいぞ」
「えっ」と月麿は体を起こして、頭を抱えた。
「いてて、畜生、飲み過ぎたようだ」
「まったく、何をやってるんでえ。だらしねえ野郎だ」
「そんな事言ったってよお、うまく行ってたのに、こいつはどうなってんだ」
「騙(だま)されたんだよ。村治の旦那にうまく、やられたってえわけよ。初手(しょて)から草津に連れて行くなんざ嘘っ八だったに違えねえ。俺たちをさんざ喜ばせておいて、津の国屋の旦那はさっさと草津に行っちまったのさ」
「そんな‥‥‥それじゃア、俺たちはどうなるんだ」
「見事に置いてけ堀をくらったんだ。どうもこうもねえ。夢吉の事アきっぱりと諦めるこった」
「そんな‥‥‥今更、諦められやしねえ。俺ア何が何でも草津に行く。絶対に行きやすからね」
「勝手にしやがれ」
尾花屋の娘分、お滝に送られ、情けない顔をして尾花屋を出た二人は空を見上げた。今にも雨が降りそうな曇り空だった。時刻はすでに四つ(午前十時)を過ぎている。お滝の話によると、津の国屋の旦那は今朝早く、旅立って行ったという。
昨夜、浮き浮きしながら乗り込んだのが、まるで、夢だったかのように惨めな気持ちだった。村田屋の旦那に腹が立ったが、この前、騙しているので怒るわけにもいかない。二人は猪牙舟(ちょきぶね)に乗る元気もなく、とぼとぼと歩いて帰った。
門前仲町から油堀に沿って佐賀町に出る。白壁の土蔵が建ち並ぶ佐賀町通りを抜け、悠々と流れる大川を左手に眺めながら、二人は無言で歩いた。時々、顔を見合わせても、出るのは溜め息ばかり、それでも、根っからの楽天家である二人はそう簡単にはくじけない。両国橋を渡る頃にはすっかり立ち直り、少しでもいいから村田屋から金を借りて、津の国屋を追いかけようとうなづき合っていた。
水茶屋や筵(むしろ)囲いの見世物(みせもの)小屋が立ち並ぶ両国広小路をわき目も振らずに通り抜け、通油町へとまっしぐら。村田屋に顔を出すと番頭の徳次郎がヘラヘラ笑いながら、旦那の部屋に案内した。
治郎兵衛は何事もなかったような顔をして、深刻な顔で無心(むしん)する二人の話を黙って聞いている。話し終わると二人の顔をまじまじと見比べ、急に大笑いした。
「どんな面(つら)して現れるか、楽しみに待っていたんだ。うまく、騙されたのう。いい気味だ」
「もう、意趣返(いしゅげえ)しはすんだんでしょう。旦那、お願えしますよ。貸して下せえ」
月麿は両手を合わせて何度も拝んだ。
「ハッハッハ、しかし、二人とも酒が強いのう。昨夜(ゆうべ)、おまえたちを酔い潰すのにえらい苦労したぞ」
「みんな、ぐるだったんですか」と一九は聞いた。
「ああ、そうだ。芸者衆もみんなぐるさ。駒吉も宮次もうまくやってくれた」
「ひでえなあ。草津に連れて行くってえのも嘘だったんですね」
村田屋の旦那はクスクスと思い出し笑いをしながら、懐(ふところ)から紙包みを取り出した。
「何です?」
「前金だ。津の国屋の旦那から先生たちに渡してくれと頼まれたんだ」
「えっ、それじゃア置いてかれたんじゃねえんですね」
「ああ、今晩、板橋宿の伊勢屋で待ち合わせて明日から旅立ちだ」
一九が紙包みを受け取ると一両小判が六枚も入っていた。
「さすが、津の国屋の旦那だ。やる事が憎いねえ。これだけ、ありゃア鬼に鉄棒(かなぼう)、弁慶に薙刀(なぎなた)、仏(ほとけ)に蓮華(れんげ)ってえもんだ。ありがたく頂戴いたします」
「板橋と言やア宿場女郎がいやすねえ」と月麿がニコニコして言う。
「ああ、板橋には大勢の飯盛(めしもり)がいるらしいな。言葉つきは田舎っぽいが、なかなか、いい女子(おなご)もいるとの事だ。でもな、伊勢屋は旅人宿なんだよ。女郎はいねえそうだ」
「なんだ、つまらねえ」
「おめえ、何しに草津に行くんだ」と一九は月麿を肘で突く。
「夢吉に会う前(めえ)に、女郎遊びなんかしていいのか。言い付けてやるぞ」
「そいつアかなわねえ。つれえがじっと辛抱(しんぼう)と行くか」
「そうさ。おめえは女子を近づけちゃアならねえよ。俺は関係ねえからな、存分に旅を楽しむぜ」
「そいつはずるい。帰って来てから、おかみさんに言い付けますぜ」
「おいおい、そりゃねえぜ」
「まあ、気を付けて行って来てくれ。仕事の事も忘れんようにな。面白い土産話を楽しみにしてますよ」
二人が浮き浮きしながら一九の長屋に帰ると、お民が鬼のような顔をして待っていた。
「おまえさん、今頃、どこから帰って来たんです」
「いや、なに、ちょっと村治の旦那にはめられてな」
「深川の芸者衆と遊んで来たんですね」
「いや、そうじゃねえって。うまく、騙されて、酔い潰れちまったんだ」
「嘘ばっかり。そんな下手(へた)な嘘をついて、まったく」
「嘘じゃねえ。月麿に聞いてみろ」
「同じ穴のむじなでしょ」
「おかみさん、本当なんだ」と月麿が言っても、お民は取り合わない。
「村治の旦那に騙されて、俺たちゃア酔い潰れちまったんだ。旦那に聞いてみりゃアわかる」
「旦那には今朝、たっぷりと話を聞きました。あの二人は芸者と仲良くなって、泊まり込んじまったって言ってました」
「冗談じゃねえ。芸者衆も旦那とぐるになって俺たちを騙したんだ」
「旅に行って恥をかかないようにって、あたしがせっかくお銭(あし)の工面をしてたっていうのに、ええ憎らしい。もう、知らない。おまえさんなんか、さっさと草津に行って、向こうの田舎芸者と一緒になって帰って来なくたっていい」
お民は奥の部屋に入ると大声で泣き出してしまった。
「まいったなア」と一九は頭を抱えながら、月麿を見る。
「これじゃア、旅立てねえぞ。おい、おめえ、何とかしてくれ」
「そんな事言ったって、夫婦喧嘩に他人が口出しすりゃア、余計、悪くなるっていうぜ」
「まったく、旦那もひでえ事を言いやがる」
一九は仕方なく、お民を慰めるために部屋に上がった。何を言っても、お民は泣くばかりでどうしようもない。一九は二度と深川には行かない。吉原にも行かない。両国や浅草の水茶屋にも行かない。決して、浮気はしませんと誓い、起請文(きしょうもん)まで書かされてしまった。指を切って血判を押すとお民は急にクックックと笑い出した。気が違ってしまったのかと思っていると笑いながら、
「今朝、旦那からみんな聞いたのよ。そして、おまえさんが帰って来たら、思い切り怒って、いじめてやれって言われたの。そうでもしないとおまえさんの浮気癖は治らないって」
「なんだ、おめえ、芝居(しべえ)だったのかよ。くそっ、冗談しっこなしだぜ。まったく、とんだ目にあった」
「でも、この起請文はちゃんと預かっておくわ。もし、何かあったら、これがものを言うのよ。ばちが当たるんだから」
「わかった、わかった。今後、浮気は決していたしません」
「おまえさん、これ」とお民はお守りと一分(ぶ)金を四枚、一九に渡した。
「おめえ、どうしたんだ、一両も」
「もしもの時のために取っておいたのよ」
「そうか‥‥‥すまねえなア。でも、そいつはおめえが取っておけ。津の国屋の旦那から仕事の前金を貰ったから、それで何とかなる」
「でも、旅に出たら何があるかわからないし」
「大丈夫(でえじょぶ)だ。旦那が一緒だからな、銭の心配はいらねえ。おめえこそ留守を守るのが大変(てえへん)だ。そいつは持っていた方がいい」
「そう。それならそうする。気をつけてね」
「おう。おめえこそ、体に気をつけるんだぜ」
うなづくお民を見つめる一九。見ちゃアいられねえと月麿は井戸端に逃げる。
洗い物をしていた徳次郎のおかみさんが小声で月麿に囁(ささや)いた。
「先生、悪い病(やまい)をわずらって草津に行くんだって。おかみさんも可哀想にねえ」
「誰でえ、そんな事を言ったのは」
「誰って、長屋の者(もん)はみんな知ってるよ。先生も遊び好きだからねえ。うまく治るといいけどねえ」
「そうだな」と月麿は否定もせずにうなづいた。
この頃、草津の湯に行くと言えば、誰もが思い当たるのが、女郎遊びの果てに瘡毒(そうどく)(梅毒)を患い、治療をしに行くのだろうという事だった。殺菌力の強い酸性の温泉によって、梅毒は完治したのである。
当時詠まれた川柳(せんりゅう)にも、
隣りでも草津へ立つは知らぬなり
夫婦連れ草津に行くは腐れ縁
江戸で病み笹湯を浴びに草津まで
とか色々と、その状況を詠んだ句があった。
ようやく一騒動も無事にすみ、一九と月麿は旅支度をして板橋宿へと飛んで行った。