10.謎の文
夜が明けた。
夢吉はついに帰って来なかった。月麿は一睡もせずに夢吉の帰りを待っていた。
中善(なかぜん)の宿屋の二階の廊下に座り込み、疲れきった顔で広小路を眺めていた月麿は部屋の方を振り返った。太鼓持ちの藤次が何事か寝言を言っている。湯安(ゆやす)の座敷に行ったまま、豊吉と麻吉の二人は帰って来なかった。
「畜生、どこに行っちまったんでえ」
小雨がまた降っている。とうとう、梅雨に入ってしまったようだ。
朝湯に向かう客の下駄の音が廊下に響き、豆腐売りの声も聞こえて来た。
「あのう、もし」と女の声がした。
月麿が声の方を向くと漬物売りの娘が立っていた。
「いらねえよ」と月麿は手を振った。
「あのう、江戸からいらした豊吉さんのお連れさんですか」
「豊吉ねえさんならいねえよ。何か用か」
「それじゃア、月麿さんて方はいますか」
「なに、月麿は俺だが」
月麿は不思議そうに娘を見た。
「文(ふみ)を頼まれたんですけど」と娘は手に持っている手紙を見せた。
「俺に? 誰からでえ」
「夢吉からだって言えばわかるって」
「なんだ、夢吉からの文だと」
月麿は娘の手から引ったくるように手紙を受け取った。手紙は二つあり、一つは豊吉あて、もう一つは月麿あてだった。
「おい、おめえ、こいつをどこで頼まれたんだ。夢吉はどこにいるんだ」
「滝の湯の所で頼まれました」
「なに、滝の湯に夢吉がいるのか」
月麿は手摺りから身を乗り出して、『滝の湯』の方を見た。しかし、夢吉の姿は見えなかった。
「はい、滝の湯のお茶屋さんで声を掛けられたんです」
「で、夢吉は一人でいたのか」
「一人だと思いますけど」
「ありがとよ」と言うと、月麿は一目散(いちもくさん)に『滝の湯』に向かった。
『滝の湯』には気楽な顔して、のんびり朝湯に浸かっている男が六人いるだけで、夢吉の姿はどこにもなかった。茶屋の女もまだ一人しかいない。その女に夢吉の事を聞くと、そんな女は来ていないという。漬物売りの娘に文を渡したはずだと言うと、それは女ではなく若い男だったと言う。
「若え男が文を渡してたのか」
「そうですよ。その娘(こ)、おくりちゃんて言うんだけどね、おくりちゃんに文を頼んでたのは、確かに若い男さ」
「誰なんでえ、その男ってえのは」
「そんな事、知りませんよ。ただ、地元の人じゃないね。見た事ないからね。ここに来たばかりのお客さんじゃないのかい。まだ、髪を解いてなかったからねえ」
「くそっ、一体(いってえ)、誰なんでえ」
「ちょっと話を聞いちゃったんだけどね、その男、夢吉とか豊吉とか言ってたけど、中善さんにいる江戸の芸者さんの事だんべ」
「おめえ、夢吉を知ってるのかい」
「そりゃア知ってますよ。ここに来るお客さんがよく噂してます。桐屋さんで働くんだってねえ。みんな、楽しみにしてますよ」
「へっ、そいつはどうだかわからねえよ」
月麿は湯安に帰ると廊下を歩きながら手紙を読んだ。
一、お軽(かる)とかけて、橋の上の番屋(ばんや)ととく、その心は何でしょう
二、十四、五の妾(めかけ)とかけて、昔の酒盛りととく、その心は何でしょう
正午にお出で下されたく願い上げ参らせ候(そうろう)、めでたくかしく
夢
「なんでえ、こりゃア」
二つの謎はすぐに解けた。
一の答えは『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の七段目、一力(いちりき)茶屋の場面でのお軽(かる)の有名なせりふ、
『風に吹かれているわいな』
二の答えは『かわらけ』
『かわらけ』というのは素焼きの陶器の事で、それに似ている事から、陰毛(いんもう)のない女性の事を『かわらけ』と呼んでいた。数え年で十四、五歳の妾はまだ、あそこに毛がないので『かわらけ』、昔の酒盛りも『かわらけ』の盃(さかずき)を使用した。
謎は解けたが、『風に吹かれているわいな』と『かわらけ』が何を意味するのか、さっぱり、わからなかった。
月麿は豊吉あての手紙も見てみた。
『わたしは大丈夫、心配しないで 夢』としか書いてなかった。
「先生、大変(てえへん)だ、大変だ」と月麿が湯安の壷(つぼ)に駆け込むと、まだ、みんな眠りこけていた。
「やかましい野郎だな。なんでえ、朝っぱらから」
一九が目をこすりながら顔を上げた。一九の隣りには麻吉が寝ている。もう一つ、布団が敷いてあるが誰もいない。布団の回りには二人の着物が脱ぎ散らかしてあった。障子(しょうじ)が閉まっていて隣りの部屋は見えない。津の国屋と都八は向こうの部屋で寝ているようだった。
「おめえ、一晩中、夢吉を捜してたのか。御苦労なこった」
「先生、大変なんだ」
「大変なのは聞こえた。夢吉が見つかったんか」
「そうじゃアねえんで。夢吉から手紙が来たんですよ」
「ほう、そいつはよかったじゃねえか」
「それが、ちっともよくねえんで。何が何だか、さっぱりわからねえ」
「何を寝ぼけてやがんでえ。夢ん中で手紙を貰ったんじゃアねえのか」
「先生、これ見て下せえ」
一九は寝そべったまま、手紙を読んだ。
「なんでえ、こりゃ」
「謎は簡単に解けるんだけど、意味がさっぱりわからねえ」
「夢吉ねえさんが見つかったの」と麻吉が目を覚まして月麿を見た。
月麿は情けない顔で首を振った。
「昨夜(ゆうべ)、飲み過ぎたかしら」と麻吉は顔をしかめてから隣りを見て、
「よの字(豊吉)はもう帰ったの」と一九に聞く。
「いや、向こうで旦那と仲良くおねんねさ」
「そう。ねえ、月麿さん、それ取ってくれる」
月麿は麻吉の半四郎鹿(か)ノ子の長襦袢(ながじゅばん)を取って渡した。
「答えは『風に吹かれているわいな』と『かわらけ』だな」と一九も簡単に謎を解いた。
「正午にお出で下されたく願い上げ参らせ候だってよ。よかったじゃねえか」
「よかったって、一体(いってえ)、どこに行ったらいいんです。そいつがわからねえんですよ」
「きっと、一力茶屋の二階(にけえ)じゃアねえのか」
「冗談はよして下せえ」
「風に吹かれてっていうんだから、どこか高えとこだろう」
「でも、『かわらけ』ってえのは一体、何の事だ」
「なに、どうしたの」と長襦袢をまとった麻吉が手紙を覗き込んだ。
「月麿の奴が夢吉から恋文(こいぶみ)を貰ったんだとさ」
「あら、よかったじゃない。夢吉ねえさん、帰って来たのね」
「そいつがまだなんだ。月麿の奴が、この謎を解いたら、会ってくれるらしいな。おめえ、夢吉に遊ばれてんじゃアねえのか」
「そんな‥‥‥でも、俺があそこにいたのをどうして知ってんだ」
「どこかで、こっそりとおめえの様子を探ってるんじゃアねえのか。きっと、風に吹かれながらな」
「先生、真面目に考えて下せえよ」
「どうした、夢吉は見つかったのか」と隣りの部屋から津の国屋と豊吉が出て来た。
「おめえに手紙だ」
一九は豊吉あての手紙を渡した。
「あら、夢吉ねえさん、帰って来たのね」
「まだなんだってさ」と麻吉が言う。
津の国屋も謎の手紙を見て考える。
「風に吹かれて、『かわらけ』があるといやア、飛鳥(あすか)山だ。草津にもそんなとこがあるんじゃアねえのか」
「そうか、かわらけ投げか」と月麿は手を打ってうなづく。
「土地の奴に聞きゃア、すぐにわかる。おお、そうだ。おかよちゃん、起きたかい」
津の国屋が隣りの部屋に声を掛けた。
「おかよちゃんてえのは壷回りの娘か」と一九が不思議そうに聞く。
「そうさ。都八の野郎、うまくやりやがったぜ。昨夜、遅くなって奴のとこにやって来たのさ」
「ほう、やるじゃねえか」
「なんです」と寝ぼけた顔で都八が顔を出した。
「おめえじゃねえ。おかよちゃんに聞きてえ事があるんだよ」
「今、着替えてます。ちっと待ってやって下せえ」
「おい、うまくやりやがったな」と一九が冷やかすと、
「へい、可愛い女子(おなご)なんですよ」と都八は頭をかいた。
「おめえにゃア勿体(もってえ)ねえ」と津の国屋が肘でつついた。
「あたしに聞きたい事って何でしょう」
おかよが恥ずかしそうに顔を出した。
「草津で、かわらけ投げをやってるとこがどっかにあるのか」
月麿が意気込んで聞くが、おかよは何の事かわからないという顔をして皆を見た。
「かわらけを谷に向かって投げるあれだよ。どっかでやってねえか」
「さあ、そんなの聞いた事ありませんけど」
「なにイ、草津にそんなとこはねえのか」
「はい、かわらけを投げるとこなんて、そんなとこありません」
「くそっ」
「かわらけ投げがねえとすると、どういう事だ」と津の国屋が一九を見た。
「風に吹かれるとこで、かわらけに関係あるようなとこ、どこか知らねえか」
一九はおかよに聞いた。
「風に吹かれる所で、かわらけですか‥‥‥さあ、わかりませんけど」
「畜生、一体、夢吉はどこにいるんだ」
「風に吹かれるってえんだから高え所だろう」と都八が言うと、
「そんな事アわかってらア」と月麿は怒鳴った。
「とにかく、高えとこを捜す事だな。どこかに、かわらけがあるかもしれねえ」
「くそっ、じっとしちゃアいられねえ」
月麿は夢吉の手紙を都八から引ったくると飛び出して行った。
「あいつ、一睡もしてねえんじゃアねえのか」と津の国屋が豊吉の手を取りながら言う。
「本気だな」と一九が呟(つぶや)いた。
「夢吉ねえさん、幸せね。あんなに思ってくれる人がいて」
豊吉が羨(うらや)ましそうに言う。
「何を言う。おめえには俺がいるだろう」と津の国屋が豊吉の顔を覗くと、
「だって、旦那は浮気者だもの」と豊吉はぷいとそっぽを向く。
「もしかしたら、夢吉ねえさんも月麿さんの事、好きかもしれないわねえ」と麻吉がしみじみと言った。
「なに、そいつは本当か」
一九は驚いて麻吉を見た。
「ねえさん、月麿さんの描いた絵をとても大事にしてるのよ。今度、草津に来る時だって、月麿さんの絵を持って来てるのよ」
「それ、ほんとなの」と豊吉も驚いている。
「ほんとよ。わちき、ねえさんの荷物、ちらっと見ちゃったのよ。荷物の中には昔、ねえさんが芸者していた頃の着物しか入ってなかったの。草津に芸者をしに来たんだから当然なんだけど、相模屋さんに買ってもらった着物だって、いっぱいあるはずでしょ。でも、そんな着物はみんな置いて来たんですって。相模屋さんも大変だし、買ってもらった物はみんな置いて来たって言ってたわ。そのくせ、月麿さんの絵はちゃんと大事に持って来てるのよ」
「夢吉に見せてもらったのか」
「そうじゃないの。なにそれ、見せてって言ったら、ねえさん、これは駄目、一番大事な物なのって見せてくれないのよ。でも、駄目って言われれば余計に見たくなるじゃない。それで、たまたま、一人になった時、ねえさんには悪いと思ったけど、こっそり、見ちゃったの。そしたら、月麿さんがねえさんを描いた絵が出て来たのよ。その頃は月麿じゃなくて、喜久麿って書いてあったけど、いい絵だったわ」
「夢吉は奴が喜久麿って名乗ってた頃の絵をずっと大事(でえじ)に持ってたのか」
一九は信じられないという顔をして、うなづく麻吉を見ている。
「それじゃア、ねえさん、相模屋さんと一緒にいた時もずっと、月麿さんの事を思ってたのかしら」
「きっと、そうよ。そうじゃなきゃ月麿さんの絵を大事に持って来やしないわ」
「こいつはまんざら、月麿の奴もうまくやるかもしれねえなア」と津の国屋が顎(あご)を撫でながら唸る。
「面白くなって来やがった。月麿と夢吉の出会いの場を是非とも拝見しなけりゃならねえな。俺は奴を追ってくぜ。おかよちゃん、俺はちょっと行ってくらア。また、今晩、会おうな」
おかよが可愛くうなづくのを見ると、都八は出て行った。