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粋な辰巳芸者を巡って、十返舎一九と喜多川月麿が草津温泉で巻き起こす馬鹿騒ぎをお楽しみ下さい。
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    香草



    25.蟻の門渡り

     

     

     相変わらずの雨降りだった。

     一九、鬼武、都八、長次郎の四人は山崎屋の捜索を手伝うため、朝飯を食べると蟻(あり)の門渡(とわた)りへと向かった。皆、俺たちの手で見つけ出してやろうと岡っ引(ぴき)気取りで張り切っている。

     一行が現場に着くとすでに作業は始まっていた。雨の中、泥だらけになって土砂を掘り返している。それを見守っている安兵衛は、伜の新三郎がどこを捜してもいないとぼやいていた。一九に知らないかと聞いたが、一九は知らないと答えた。昨日、赤岩に行ったまま、まだ帰って来ないらしい。向こうに泊まった所を見ると、うまく行ったのかもしれないと密かに思った。

     一九らは蟻の門渡りから、さらに先へと行ってみた。都八が言うには香臭(かぐさ)という所に茶屋があるという。そこの茶屋の親爺が何かを知っているかもしれなかった。

     山ツツジが咲いている山道をしばらく行くと小さな茶屋が見えた。暇そうな面をして、軒先で雨を眺めている親爺に鬼武が声を掛けた。

    「おい、親爺、酒はあるか」

    「へい、いらっしゃいまし」と親爺は愛想笑いを浮かべて、

    「旦那方、滝見物にいらしたんですかい」と聞いて来た。

    「そうだ。噂を聞いてな」と一九が答えた。

    「雨が降らなきゃいい眺めなんだが、こう雨が続いちゃア、のんびり滝見もできねえ。ただ、雨のお陰で、滝の水はごうぎに見事なもんでごぜえますよ。まあ、一休みしたら見て行きなさるがいい」

     茶屋の中は以外と広く、茣蓙(ござ)を敷いた縁台(えんだい)が二つあった。壁際も腰掛けられるようになっていて、夏場は湯治客で盛るようだった。

     傘を軒下に置き、縁台に腰掛けると親爺は濁(にご)り酒を欠けた湯飲みに入れて四人に出した。

    「ところで、親爺さん、来る途中で崖崩れがあったそうだな」と一九が聞いた。

    「へい。まったくえれえ事になりやした。あっしも長え事、ここで商売(しょうべえ)やっておりますが、二人も生き埋めになったなんざア初めての事でごぜえます」

    「噂だと、まだ二人、埋まってるらしいじゃねえか」

    「そうなんでごぜえますよ。乞食の格好した信州の旦那さんとお妾だそうだ。まったく、乞食の格好で死ぬたア哀れなこった」

    「親爺さんはその乞食の二人をここで見たのか」

    「ああ、見ましたとも」と親爺は得意気にうなづいた。

    「あの日は昼過ぎまで、いい天気だったんですがねえ、八つ(午後二時)頃、突然、大雨が降ってきやがった。すぐそこで、お江戸からいらしたってえ旦那方が芸者衆を連れて酒盛りを始めてたんだが、慌てて帰って行きましたよ。その後、ほれ、亡くなった二人が山の方からやって来て、ここでしばらく雨宿りしてたんでさア。しかし、雨がいつになってもやまねえもんだから、諦めて草津の方に帰って行ったんだ。もう少し、雨宿りしてりゃア、あんな目に会わなかったんに、まったく、運が悪(わり)いとしか言えねえ。二人が出てってからすぐだったな。山の方から二人の乞食がやって来た。見るからにひでえかってえ乞食だ。まさか、あれが信州の大店(おおだな)の旦那さんとそのお妾だったとは夢にも思わなかったでえ」

    「ほう、すると、死んだ二人と乞食二人はほぼ同じ頃、蟻の門渡りの方に行ったのか」

    「そうでさア。一緒に生き埋めになっちまったんだんべえ」

    「死んだ二人と乞食が二人とその後は誰も山から下りて来なかったのか」

    「あの後は誰も来やしませんや。今の時期はお客さんも少ねえんでさア。梅雨が明けりゃア、そりゃもう次から次へとやって来て、ここも大忙しでさア。そん時ゃア、うちの嚊(かかあ)や嫁っ娘(こ)にも手伝ってもらうんだが、今は一人で充分なんでさア」

    「成程、そして、親爺さんはいつ、ここを引き上げたんだ」

    「わしゃアいつもの通り、七つ半(午後五時)頃だア。そん時ゃア、もうあそこは崩れていやがったよ。まさか、あの二人が埋まってるたア夢にも思わねえで、谷底を覗いて身震いしながら帰ってったのさ。そしたら、湯安さんとこの番頭さんが、お客が来ねえって大騒ぎしてたんだ。わしゃ崖崩れの事を教えてやったんさ」

    「成程なア、そうなると乞食の二人も土砂崩れに会ったに違えねえなア」

    「そうともでさア。まったく、一遍に四人も亡くなるたア、恐ろしいこった」

    「親爺、崖が崩れた時、音は聞こえなかったのか」と黙って酒を飲んでいた鬼武が聞いた。

    「へえ、それがまったく気づかなかったんでさア。なにしろ、ひでえ土砂降りだったもんで、屋根の音がうるさくて‥‥‥あれだけ崩れたんだから、物凄え音がしたとは思うんですがねえ。今思えば、大雨のさなか、一瞬、地面が揺れたような事がありました。あん時、崩れたんだんべえなア」

     一九たちは銅銭を置くと茶屋から出て、常布の滝が見える場所に行った。思ったより滝は遠くの方に見えた。親爺が言った通り、水量が豊富で見事な眺めだった。

    「山崎屋の二人は茶屋の前までは無事だったのは確かだな」と鬼武が滝を眺めながら言った。

    「やっぱり、あの土砂に埋まってるようだ」と都八が残念そうに言う。

    「そう簡単に決めちゃア話にならねえ。あらゆる事を考えなくちゃアな」

    「あらゆる事って?」

    「崖崩れんとこは奴らに任せて置けばいい。わしらが一緒になって泥だらけになる事もあるめえ。奴らと違ったやり方で見つけるのさ」

    「そんな事を言ったって、見たところ、崖崩れしたのはあそこだけみてえだし」

    「とにかく、ここまで来たんだ。この辺りから捜してみるか」

     一九が言うと鬼武は渋い顔をしてうなづいた。

    「いねえとわかるだけでもいいじゃねえか」

     一九たちが茶屋に戻ると新三郎が茶屋の親爺と話をしていた。一九たちに気づくと駆け寄って来た。

    「先生」

    「どうした。親父さんが怒ってたぞ」

    「ええ、今、さんざ小言を言われましたよ」

    「赤岩はどうだった」

     新三郎はへっへっへと照れ臭そうに笑った。

    「その顔付きじゃアうまく行ったようだな」

    「はい。お陰様で‥‥‥でも、これからが大変ですよ。あの頑固親父とうるせえお袋を説得しなけりゃなりません」

    「なに、死ぬ程の覚悟ができてりゃア、そんなのわけねえだろう」

    「ええ、まア。しかし、崖崩れで二人も亡くなったとは驚きましたよ。先生は読本のネタ捜しですか」

    「それもあるが、湯安の旦那にゃア世話になってるからな。手伝う事でもあればとやって来たんだが、どうも、出番はなさそうだ」

    「例の山崎屋さんも埋まっちまったらしいですね。可哀想に‥‥‥」

     一九たちはどうせ見つからないだろうと思いながらも、道の左右の草むらの中を捜し回った。

    「ねえ、先生、どうして、こんなとこを捜すんです」と新三郎が不思議そうに聞く。

    「さあな」と一九は笑いながら首を傾げる。

    「鬼武さんのひらめきだろう。とにかく、人と違った事をやりたがる変わり者だからな。まあ、何か手掛かりでもつかめりゃアめっけもんだ。若旦那の手柄になるかもしれねえぜ」

    「まさか。でも、泥にまみれるよりはいいか」

     新三郎は鬼武を追って、濡れた草むらに入って行った。

     一九はふと思い出したかのように、滝の見える所まで戻って、傘を差しながら、その景色を手帳に写した。写しながら、紅葉の時期に来れば、素晴らしい眺めだろうと思った。なぜか、急にお民の顔が思い出され、今度、来る時はお民も連れて来てやろうか、などとも思っていた。

     茶屋まで戻ると皆の姿はなかった。相変わらず、暇そうに雨を眺めている親爺が一九を見て、意味もなくニヤッと笑った。

     一九は茶屋に行き、もう一杯、茶碗酒を飲むと蟻の門渡りの方へと向かった。香臭の茶屋から蟻の門渡りまでの道は右側が山で左側に谷があるが険しい場所はない。道の脇には熊笹が生い茂り、その中を鬼武、新三郎、都八、長次郎が下を見ながらウロウロしていた。

    「おーい。何かあったか」と一九はみんなに聞いた。

    「何もありゃアしませんよ」と都八が答えた。

    「何もねえなア」と鬼武も言って、新三郎と一緒に道の方に戻って来た。

    「この雨の中、捜すのは無理だ。雨がやんでから出直そうぜ」

    「そうだな。そろそろ帰るか」と一九が言うと、

    「滝の湯に入って、また、桐屋にでも繰り出そうぜ」と鬼武は嬉しそうに言う。

    「鬼武さんも桐屋が気に入ったようだな」

    「まあな。江戸で芸者遊びなんざ、なかなかできねえからな。深川にいた頃から、春吉には目を付けてたんだ。月麿じゃアねえが、春吉が草津にいるって聞いてたんでな、こいつは会えるかもしれねえってやって来たわけだ」

    「なんだ、そうだったのか」

     一九は鬼武を見ながらニヤニヤ笑う。

    「路銀は津の国屋の旦那が持つってえんだ。これ程、うめえ話はねえだろう。ただ、茶番が終わるまで、春吉に会いに行けなかったんは辛かったぜ」

    「そいつは辛かったろうなア」

    「まったくな。ついに我慢仕切れなくなって、京伝先生と相談して、顔に傷痕(きずあと)を付けて出歩いたんだが、桐屋にゃア、おめえたちがいて、結局、春吉にゃア近づけなかったんだ」

    「そうだったのか。茶番が終わって、ようやく、御対面できたってえわけだ」

    「そうさ。あん時、善好に頼んで、春吉を揚げてもらったのさ」

    「それじゃア、昨夜と一昨日の晩は充分にいい思いしたんだな」

    「まあな。春吉の奴、草津の湯に入ってるせいか、深川にいた頃よりも若返(わかげえ)ったみてえだったぜ」

    「へえ、そいつはよかった」

    「やあ、まいった。まいった」と都八が泥だらけになって道に戻って来た。

    「畜生め、石ころにつまづいちまったぜ」

    「あれ、長次の奴はどこ行ったんだ」

     一九が聞くと、

    「さっき、その辺にいましたよ」と新三郎が谷の方を指さした。

    「おーい、長次、もう帰るぞ」と都八が叫んだが返事はなかった。

    「あの、馬鹿、滑って落ちたんじゃアあるめえ」

     都八が谷の方に行くと皆も後を追った。

    「おーい、長次、どこにいやがるんだ」

    「痛え、畜生。ここだ、助けてくれ」

     声はするが長次郎の姿は見えなかった。

    「おーい、どこにいるんだよお」

    「ここだ」と長次郎が手を上げた。

     かなり下まで滑り落ちたようだった。

    「大丈夫か」

    「けつを打ったけど、なんとか大丈夫だ」

     長次郎が熊笹の中に立ち上がった。

    「まったく、世話の焼けるとんちきだ。早く上がって来い」

    「傘がどっか行っちまった」

    「どうせ、びしょ濡れなんだろう。今更、傘なんかいるめえ」

    「だって、宿屋から借りた傘だ」と言いながら長次郎は傘を捜している。

    「傘なんかどうでもいいから、早く上がって来いよ」と一九も言った。

    「あった。ありました」

     長次郎はさらに下の方に降りて行った。

     長次郎が傘を拾って、さて、上がろうとした時、何かが足にぶつかった。なんとなく気持ちの悪い感触で、長次郎はハッと飛び下がった。蛇でも出たかと足元を見ると白く長い物が目に入った。

    「なんだこりゃア」と草の中に隠れているのを目を凝らして見ると、泥にまみれているが、それは紛れもなく人間の足だった。

     一瞬、長次郎は自分の目を疑った。こんな所にどうして足があるのか見当もつかなかった。目の錯覚だろうと心を落ち着けてよく見直したが、人間の足に間違いはなかった。しかも、女の足、ふくら脛(はぎ)のようだった。

     長次郎は恐る恐る熊笹を傘の柄で払い、ふくら脛の先を見た。太ももがあり、股間の茂みがあった。二つの乳房があった。そして、髪を振り乱して白目をむいた若い女の顔があった。

    「大変(てえへん)だア」と長次郎は思わず叫んでいた。

     腰を抜かす程、驚いたが上からは見えないのか、誰も降りては来なかった。

    「おーい。熊でも出たのか。早く上がって来いよ」と都八がのんきに言っていた。

    「兄貴、早く来てくれ。ここに、ここに女の死人(しびと)がいるんだよう」

    「なんだと」

    「女が素っ裸で死んでるんだ」

     ようやく、みんなが降りて来た。

     鬼武が棒切れで熊笹をどけ、死体の顔を確かめた。泥で汚れている顔は白目をむき、口を開き、苦痛に歪んでいる。眉(まゆ)は剃ってなく、歯も白かった。髪は結ってなく、長い髪が体にまとわりついている。首には絞められた跡がはっきりと残っていた。

    「どうだ、山崎屋の妾か」と鬼武が新三郎に聞いた。

    「はっきりとはわからねえが多分、そうじゃねえかと」

    「こいつア、殺しだぜ」

    「一体、誰がこんな事を‥‥‥」

     新三郎は死体から目を背(そむ)けた。

    「早く、親父さんに知らせるんだ」

     一九が言うと新三郎はうなづいて、斜面を登って行った。

     鬼武は棒切れで熊笹をどけながら、体の方も調べた。首以外には大した傷はないようだった。

    「やられて殺されたんかな」と都八が股間を眺めながら言った。

    「わからんが多分、そうだろう。手籠(てご)めにしてから首を締めて殺し、ここに投げ捨てたに違えねえ」

    「一体、誰がやったんでえ」

    「どっかに女が着ていた襤褸布(ぼろきれ)があるんじゃねえのか」と一九が辺りを見回した。

    「そうだな、あるかもしれねえ。襤褸布だけじゃなく、山崎屋もそこらにいるかもしれねえぞ」

     一九たちは死体の回りを捜し回ったが何も見つからなかった。やがて、源蔵親分と安兵衛がやって来た。

    「なんてこった」と源蔵は死体を眺めながら首を振った。

    「えれえ事になりやがった。旦那、こいつは山崎屋の妾に間違えねえですね」

     安兵衛が恐る恐る、死体の顔を覗き込んだ。

    「そのような気もするが、確かとは言えんなア」

     源蔵親分は首に掛けていた手拭いで死体の顔を拭いた。手拭いが濡れていたので泥が綺麗に落ちて白い肌が見えた。苦痛に歪んでいるが、その顔は紛れもない別嬪(べっぴん)だった。

    「親分、間違えありませんよ。山崎屋さんのお妾のお菊さんです。間違えありません」

    「よし」と大きくうなづくと源蔵は死体を丹念に調べた。

     長い髪をどかして、首の様子を調べ、両手両足、足の裏も眺め、足を広げて股間の様子を見て、引っ繰り返して、背中や尻も調べた。

    「こいつは手で絞め殺されたに違えねえ。そして、間違えなく、やられてるな」

    「さすが、親分、見ただけでわかるんですか」と都八が感心した。

    「なあに、殺されてからすぐならともかく、ずっと雨に濡れてりゃア、そんな事アわかりゃアしねえ。だが、殺したのは男だ。まともな男なら、これだけの別嬪を見て、やらねえはずはあるめえ」

    「でも、この女、乞食の格好をしてたんでしょう。そんな汚え女を襲いますかねえ」

    「去年来た時は顔に墨(すみ)を塗って、さらに続飯(そくい)(糊(のり))のような物をつけて、顔がただれてるように見えましたよ。雨に濡れたんで、その汚れがみんな落ちてしまったんかもしれませんねえ」

     安兵衛が言うと源蔵はうなづいた。

    「そいつに違えねえな。汚え格好してるが、いい女だったんで取っ捕めえて、やっちまったに違えねえ。やっちまってから、乞食なんか殺したってわかるめえと捨てやがったんだ」

    「その時、山崎屋はどうしてたんです」と都八が聞く。

    「先に殺されたに決まってるだんべえ」

     源蔵は若い者を呼ぶと死体を筵(むしろ)にくるませて運ばせた。

    「まったく、えれえ事になりやがった。これがただの乞食だったら、なんとかごまかせるんだが、お客さんじゃアどうしようもねえ。えれえ騒ぎになるぜ。一体、誰がこんな真似をしやがったんでえ」

     源蔵は独り言のようにつぶやいて、一九の顔を見て苦笑した。

    「先生、詳しい話を聞かしてもらいやしょう」

     源蔵は一九たちを促した。一九はうなづき、鬼武、都八、長次郎と共に斜面を登った。

     皆、びしょ濡れになっていた。傘をどこに放り投げたのかも覚えていなかった。振り返ると死体のあった辺りで安兵衛と新三郎の親子が話し込んでいた。

     源蔵は上から様子を見守っていた泥だらけの若い者たちに、この辺り一面の捜索を命じた。そして、一九たちを茶屋に誘った。

     ここからは茶屋は見えなかった。あの日、茶屋の親爺が帰る頃にはもう、あの女は殺されていたのかもしれないと一九は思った。

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