15.義仲伝説
一九は朝早くから、新三郎、中沢眺草(ちょうそう)、横山夕潮(せきちょう)と一緒に義仲伝説のある入山(いりやま)村へと向かっていた。
昨夜、桐屋で夕飯を食べた時、都八(とっぱち)がおかよと一緒に眺草を連れて来た。雨がやんだので、もし、明日も降らなければ、入山村を案内するという。一九もそのつもりだったので、喜んでお願いした。
一九は眺草と共に早めに桐屋から引き上げ、宿屋に帰った。眺草は甥が経営する中沢杢右衛門(もくえもん)の宿屋に住んでいるのではなく、町外れの静かな所に住んでいるという。一九が送って行こうとしたら、鷲(わし)の湯の少し先だからと言って断った。星空を見上げながら、
「明日は大丈夫じゃろう」と笑うと眺草は帰って行った。七十近いというのに元気な爺さんだった。
眺草と別れ、部屋に戻ると新三郎が一人で待っていた。一九が思っていた通り、新三郎は雲嶺庵(うんれいあん)を去った後、再び、お鈴に会いに行っていた。お鈴は恐れる事なく、かったい(ハンセン病患者)たちの面倒を見ていた。新三郎が何を言っても聞かなかった。新三郎は暗くなるまで、お鈴のやる事をじっと見守っていた。その後、お鈴を連れて美濃屋に行き、話し合った。
お鈴の話によると、お鈴がかったいたちの面倒を見に来るのは月に一度だけだという。本当は毎日、面倒を見てやりたいけど、お鈴も食べて行かなければならないので、それはできない。普段は赤岩で先生の手伝いをしているという。
新三郎は何度もやめろと言ったが、お鈴の意志は堅かった。出された料理にろくに手もつけず、うつむいている事が多かった。新三郎はお鈴が今夜、お世話になるという山口清太夫(せいだゆう)の宿屋まで送って、一九に相談するために帰りを待っていた。
そんな事を相談されても一九は困ったが、新三郎の話を黙って聞いていた。かったいの世話なんかやめさせたいと言いながらも、一生懸命になって、かったいの世話をしているお鈴の姿に感動したようだった。
「あんなお鈴を見なければよかった」と新三郎は苦しそうな顔をして言った。
「お鈴の事なんか忘れてたのに‥‥‥あいつ、前よりもずっと生き生きしていて、強え女になっていた」
一九は新三郎の顔を見ながら、うなづいた。
「きっと、お鈴ちゃんは自分の生き甲斐(げえ)を見つけたんだよ。女の医者なんて、あまり聞かねえが、お鈴ちゃんは立派なお医者さんだ。偉え医者でも、ああやって、かってえたちの中には入って行けねえ」
「ええ、凄え女です。あんな女だったとは思ってもいなかった」
新三郎は一九から目をそらすと、ぼんやりと行燈(あんどん)を見つめた。
一九は煙管に煙草を詰めながら、
「若旦那、お鈴ちゃんに会って、また好きになっちまったんじゃアねえのかい」と聞いた。
「そんな、そうじゃねえんです」
新三郎は向きになって否定した。
「ただ、若え娘があんな事をしてるのが見てられなくて」
「いいや、そうじゃねえだろう。あれが、お鈴ちゃんじゃなくて、知らねえ娘さんだったら、そんなに心配(しんぺえ)したりしねえだろう。自分の心に素直になる事だよ」
「自分の心に素直にですか‥‥‥」
新三郎はそうつぶやきながら帰って行った。
お鈴という娘は使えるかもしれないと読本(よみほん)の構想を練りながら一九は早寝をした。
朝、起きてみると月麿はいなかった。無事に夢吉と会えたのか、それとも、中善(なかぜん)で一睡もせずに待っているのかわからないが、あいつの面倒まで見ていられない。一九は夜明け前に起きて、さっさと旅支度をすませた。
隣りの部屋を覗くと都八がおかよと一緒に幸せそうに眠っている。津の国屋の姿はなかった。桐屋に泊まり込んだようだ。一九は麻吉の事をチラっと思った。昨夜、連れて帰りたかった。麻吉も一緒に来たいような顔をしていた。でも、眺草が一緒だったので、誘う事ができなかった。どこで寝ているのだろうかと少し心配しながら部屋を出た。
庭の五葉松(ごようまつ)の下で、すでに眺草は待っていた。横山夕潮の姿もあった。明るくなりかかっている空は曇っているが、雨は降っていない。
今日、一日、降らないでくれよと一九は空を見上げながら、二人のそばまで行った。
「おはようございます。わざわざ、どうもすみません」
「いやいや、わしも確認したい事がありましてな」と眺草が言うと、
「昨夜、眺草さんを訪ねたら、一九先生が入山に行くと聞きまして、わたしも是非にとついてまいりました」と夕潮は笑った。
「お二人が一緒なら心強い。噂ではかなりの山奥だとか」
「そうじゃな、落人(おちうど)が隠れていた所じゃから道は細くて険しいですよ。それでも、最近は向こうから草津に行商(ぎょうしょう)に来る者も多いから、道はちゃんとあります。道に迷いさえしなければ何ともありませんよ」
庭の奥の方から眠そうな顔をして新三郎がやって来た。
一晩中、お鈴の事を考えていて、あまり寝ていないようだった。
「若旦那、夜遊びが過ぎるようですな」と何も知らない眺草が笑った。
一行は義仲伝説の村へと向かった。
14.鷺白
雲嶺庵(うんれいあん)は泉水の通りを望む高台の上にあった。庵(いおり)と呼ぶにふさわしく、それ程、大きな建物ではなく、板葺きの屋根には、やはり石が乗せてあった。手入れの行き届いた庭を通って、縁側の方に行くと話し声が聞こえて来た。
丸髷(まるまげ)に結った若い女が縁側に腰掛け、鷺白(ろはく)と話をしている。
「まあ、湯安さんの若旦那じゃありませんか、いらっしゃいませ」と女は丁寧に頭を下げた。
「おや、十返舎(じっぺんしゃ)先生と月麿先生もご一緒か」と鷺白が振り向いて言った。
「まあ、十返舎先生でございましたか。どうぞ、ごゆっくりして行って下さいませ」
女は再び、丁寧に頭を下げ、
「それじゃア、その通りにいたします」と鷺白に言うと去って行った。
「頼むぞ」と鷺白は女の後ろ姿に言った。
女は振り返って、軽く笑った。
一九も月麿もその女の美しさにしばし、見とれていた。
「うちの嫁じゃ」と鷺白は笑った。
「先生方は江戸の俳人(はいじん)で二六庵(にろくあん)一茶(いっさ)先生をご存じですかな」
「はい、噂だけは聞いておりますが」と一九は言った。
鷺白はうなづいた。
「その一茶先生が今月、草津に来られるはずだったんじゃがな、どうやら、来月の末になるらしい。その事を今、知らせに来たんじゃよ。まあ、どうぞ、お上がり下さい。狭い隠居所で散らかっておりますが」
鷺白の書斎らしいその部屋には書物が積み重ねられ、仕事をしていたらしく、文机(ふづくえ)の上には書きかけの文が乗っていた。
「句集を出そうと思いまして、ちょっと整理をしていたとこなんですよ。まあ、どうぞ、楽にして下さい」
「先生、いよいよ、出しますか」と新三郎が文机を覗きながら言った。
「お前ももっとみしみてやれば、句集に入れてやるが、今の腕じゃアまだまだだぞ」
「はい、すみません。色々と忙しくって」
「何を言っておる。毎晩、桐屋に入り浸ってるようじゃな。遊びも結構じゃが、やるべき事はやらんとな」
「はい、わかってますよ」
鷺白のおかみさんらしき女がお茶をもって来た。鷺白よりも随分と年が若いようだった。
「先生にちょっと見てもらいたい物がありまして、お邪魔したんですけど」
新三郎がそう言って、夢吉の手紙の事を説明した。
「ほう。さすが、深川の芸者ですな。やる事が粋(いき)ですねえ」と鷺白は夢吉の手紙を見た。
「これは薬師さんにある龍山公の歌のようじゃが、少し、違うようじゃな」
「そうなんです。上(かみ)の句と下(しも)の句がバラバラで順番も違うんです」と月麿は自分が写した龍山の歌も見せた。
「うーむ。この中に謎が隠されているというのですな」
「はい。どうも、歌の事は難しくって、さっぱりわかりません」
「昔の連歌師(れんがし)は連歌の中に謎を入れて遊んでいたようじゃ。龍山公が詠んだように、句の頭の字を決めて、歌を詠むのも一種の遊びじゃな。ところで、先生方は龍山公とはどんなお方だったか、ご存じですかな」
「さあ、昔の偉いお坊さんだとは思いますが、詳しい事は」と一九は首を振る。
当然、月麿もわからないと首を振る。
「うむ。一応、入道(にゅうどう)して龍山と名乗っておりますが、お坊さんではなくてお公家(くげ)さんなのですよ。それもただのお公家さんではない。関白(かんぱく)にもなられた偉いお人なのです。時代的には織田信長や武田信玄、上杉謙信らの武将が活躍していた頃のお人なんです。信長とは特に親しい間柄だったらしく、信長が本能寺で殺された時、頭を丸めて龍山と号したんですよ。龍山公が草津に来られた天正十五年(一五八七年)はもう戦乱の世も終わり、太閤(たいこう)秀吉の天下になっておりました。龍山公も安心して京都からの長旅を楽しんだ事でしょう」
13.お鈴
新三郎の案内で、賽(さい)の河原の奥まで見て回った一九は茶屋で一休みしながら、満足そうに描き溜めた手帳の絵を眺めた。
熱い湯がブクブクと音を立てて噴き出している鬼の茶釜(ちゃがま)、河原にいくつも積んである石の五輪の塔、木の葉石、ゆるぎ石、鬼の角力場(すもうば)、さらに奥にある氷谷(こおりだに)、すべての景色が充分に読本に使えた。義仲の頃はもっと不気味で恐ろしい所だったに違いない。鬼の泉水と呼んでいた通り、鬼が出て来てもおかしくない恐ろしい所だった。
読本の構想を練りながら、一九はふと、草津の湯が癩病(らいびょう)(ハンセン病)に効くという事を思い出した。癩病患者たちのいる安宿を見ておくのも読本のネタになるかもしれないと思った。
「えっ、かってえの所に行くんですか」
一九の意見を聞くと新三郎は顔をこわばらせた。
「あんな汚えとこに行って、どうするつもりなんです」
「ネタ捜しさ。ネタはどんなとこに落ちてるかわからねえからな」
「どうしてもと言うのなら案内しますけど、覚悟して下さいよ。凄えとこですから」
二人は泉水(せんすい)通りを戻り、広小路から立町(たつまち)の坂を上った。地蔵の湯へ行く四つ辻の角に料理屋の美濃屋があり、その先が新田町(しんでんまち)だった。美濃屋の先には小さな宿屋が並んでいる。宿屋の二階から湯治客が何人か、通りを眺めているが、癩病を患(わずら)っているようには思えなかった。
「表通りにはいませんよ。裏の方に隠れてるんです」
草津の入り口にある木戸が見えて来た辺りで、新三郎は左の細い路地に入って行った。宿と宿の間を抜けると粗末な小屋が並んでいるのが見えた。中には筵掛(むしろが)けの掘っ建て小屋もある。表通りとはまるで別世界だった。
一九たちの姿を見ると顔や手足に汚い布(きれ)を巻き付けた乞食(こじき)たちが集まって来て、手を差し出して来た。その手が普通の乞食とは違っていた。指が曲がっているのはいい方で、ただれていたり、中には指が一本もない者もいる。目がつぶれている者、鼻がかけている者、片足のない者と想像を絶する姿の者たちが、うようよと現れた。
「一文(もん)やって下しゃれませ」と言いながら、乞食たちは一九たちの後について来た。
「どうします、まだ、奥の方を見ますか」と新三郎が懐手(ふところで)をしながら聞いた。
「まだ、奥があるのか」
「ええ、結構、あちこちから集まって来るんですよ。幸い、歩けねえような重病の者はいません。冬住みがあるので、奴らも一年中、ここにはいられませんからね、冬になるとどこかに行って、また、戻って来るんですよ」
「そうか。せっかくだから見て行こうか」
「そうですか」と新三郎はいやな顔をしながらも奥へと向かった。
狭い路地は雨水が溜まってグシャグシャだった。下駄を泥だらけにしながら奥へと行くと小屋の中から次から次へと異様な者たちが、
「おあまり下しゃれ、おあまり下しゃれ」と言いながら出て来た。
乞食たちは一九の着物を引っ張ったり、指のない手で、一九の腕をつかんだりしてくる。さすがに、一九も気持ち悪くなり、
「もういい。早く出よう」と新三郎を促した。
新三郎はうなづき、乞食たちを払うように先へと進んだが、ふと、足を止めて、小屋の中を覗き込んだ。
一九も小屋の中を見ると薄暗い中に若い娘の姿があった。
「可哀想になア、あの若さで業(ごう)の病(やめえ)に冒されるとは‥‥‥」
「ええ」と言いながら、新三郎は娘の姿をじっと見ていた。
娘がチラっと振り向いた。
その顔は以外にもまともだった。まともというより、泥沼の中に咲く一輪の蓮(はす)の花のように美しく思えた。
「おい、おめえ、もしかして、お鈴じゃアねえのか」と新三郎が娘に声を掛けた。
「えっ」と言いながら、娘は新三郎を見つめた。
「もしかしたら、湯安さんとこの若旦那さん?」
「ああ、俺だ。新三郎だ。おめえ、なんでこんなとこにいるんだ」
「それは‥‥‥それより、若旦那こそ、どうして、こんなとこに」
「いや、俺はちょっと、この先生を案内して‥‥‥それより、おめえ、かってえになっちまったのか」
お鈴は首を振った。
「おひゅひゅひゃんはわひらの観音ひゃまひゃ」と小屋の中にいた乞食が言った。
一九がその乞食を見ると、頭を丸めて、ぼろぼろの墨染(すみぞめ)を着た年老いた乞食坊主だった。
「とひどひ、わひらの面倒ほ見にひてふれるんひゃよ。勿体(ほってえ)ねえ事(ほと)ひゃ」
「面倒を見る?」と新三郎は小屋の中に目をこらした。
よく見ると、お鈴のそばに年寄りが寝ていて、お鈴は傷口を洗っていたようだった。
「おい、おめえ、一体(いってえ)、何をしてるんだ」
新三郎は下駄のまま小屋に上がるとお鈴の手を引っ張った。
「若旦那、やめて」と言うのも聞かず、新三郎はお鈴の手を引いて小屋から連れ出した。
「てめえら、どきやアがれ」
凄い剣幕(けんまく)で乞食たちを追い散らすと、さっさとお鈴を連れて、その一画から出て行った。
一九は慌てて、後を追った。
12.龍山の歌
♪春雨の眠ればそよと起こされて
乱れ染めにし浦里(うらざと)は
どうした縁でか、かの人に
会(お)うた初手(しょて)から可愛さが
身にしみじみと惚れぬいて~
「おっ、都八(とっぱち)がやってるな」と一九が笑いながら新三郎に言った。
桐屋の仲居(なかい)に案内されて、二人は庭園内を歩いていた。広い庭園には見事な枝振りの松や梅、桜にシャクナゲ、ナナカマドが植えられ、築山(つきやま)がいくつもある中、大小様々な数寄屋(すきや)造りの離れ座敷が建っている。二人の後、少し遅れて顔色の悪い月麿がうなだれながらついて来る。
「あの人はほんとにうまいですねえ」と新三郎が都八の唄に感心しながら言う。
「一中節(いっちゅうぶし)のお師匠だからな」
「平塚(ひらづか)にいた頃、俺も習いましたよ。あそこは人形浄瑠璃(じょうるり)が盛んで、江戸から来たお師匠さんが旦那衆に教えてました」
「ほう、若旦那は何でもやるんだな」
「いえ、まあ、唄がうまけりゃ女子(おなご)にもてると思いましてね。ほんのちょっとかじっただけです‥‥‥あれも一中節なんですか」
「いや、あれは新内(しんない)だ。最近、江戸で流行ってる『明烏(あけがらす)』だよ」
大きな池の側に建つ妙義亭(みょうぎてい)という離れ座敷で津の国屋は待っていた。
都八はもういい気分になっていて、三味線を弾きながら顔を上気させている。豊吉と麻吉の他に、昨夜、湯安に来たお夏とお糸も顔を揃えていた。
「まるで、向島(むこうじま)の料理屋に来たようだな」と言いながら、一九はお夏を見た。
細面(ほそおもて)で鼻筋の通ったいい顔をしている。この女が『かわらけ』だったとは、と首をかしげた。
「先生の浮気者」と麻吉が睨(にら)み、一九をつねる真似をした。
「いや、そんなんじゃアねえんだよ」と一九は手を振った。
「おい、月麿、夢吉ねえさんはどうした」
津の国屋が聞くと月麿は情けない顔をして首を振った。
「また、謎を掛けられたらしい」
一九がニヤニヤと笑う。
「ついさっき、相模(さがみ)屋が来たぞ。やっこさん、俺がいるのを見て、鳩(はと)が豆鉄砲を食らったような面をしてたぞ。月麿がいるのは知ってたが、俺の事は知らなかったようだ。奴も必死になって夢吉を捜し回ってるらしいな」
「ほう、相模屋が来たのか」
「昨夜(ゆうべ)遅くまで、連れの河内(かわち)屋とここで派手に遊んでたらしい。どうせ、そのうち帰って来るだろうと安心して遊んでたのが、今朝になっても帰って来ねえ。慌てふためいて捜し回ってるようだ」
「もしかしたら、夢吉は相模屋から逃げてるのかな」と都八が三味線の手を止めて言う。
「一人になりたくて草津に来たのに、おめえたちが追いかけて来たから、夢吉はどっかに隠れちまったんだろ」
「相模屋から逃げるのはかまわねえが、俺から逃げる事アねえだろうに」
「そいつはおめえの言い分だ。相模屋の方じゃアおめえが来たから逃げたと思ってるぜ」
「でも、ねえさん、ほんとにどこに隠れてんだろう。わたいらにはちゃんと知らせてくれたっていいのにさ」
豊吉と麻吉は、ねえとうなづき合った。
「なアに、月麿に謎をかけて来るんだ。心配(しんぺえ)ねえ。もしかしたら、夢吉はどこかで、おめえの動きを見ながら楽しんでるのかもしれねえぞ」
「そんな馬鹿な。でも、矢場の女に手紙を渡した若え男ってえのは一体(いってえ)、誰なんだろう」
「この前(めえ)の時と同じ野郎に間違えねえな。だが、夢吉の知り合(え)えは草津にゃアいねえはずだ。どこかの料理屋の若え者じゃアねえのか。夢吉に頼まれて、おめえの事を探ってるのかもしれねえぞ」
「それはありえるな」と一九も言った。
「初手の謎の時、夢吉はおめえが中善にいるのを知っていた。今度もおめえが金毘羅さんに行くのをどっかで見てたのかもしれねえ」
「そうか、奴は俺の後をつけていやがったのか。畜生め、野郎、取っ捕めえてやる」
「ところで、今度はどんな謎なんだ」
「今度のは難しいんですよ」と月麿は持っている手紙をみんなに見せた。
11.若旦那
朝湯に入り、飯炊きの婆さんが用意してくれた朝飯を食べると、津の国屋は豊吉と麻吉を連れて散歩に出掛けた。下男の弥助は津の国屋に休みを貰って、故郷の平塚(ひらづか)村に帰って行った。月麿と都八(とっぱち)は出掛けて行ったまま、朝飯の時も戻らない。
一九はおかよが持って来てくれた草津の絵地図を眺めながら、一人、読本の構想を練っていた。
昨夜、中沢眺草(ちょうそう)と横山夕潮(せきちょう)から草津の歴史や伝説は大体、聞いた。木曽義仲の伝説がある入山(いりやま)村には是非とも行かなければならないが、雨降りでは無理だった。それと、昔、湯本平兵衛の娘が龍になったという平兵衛池も読本のネタに使えそうだった。雨がやんだら行かなければならない。とりあえずは、草津の村内を見て歩こうと手帳を懐(ふところ)に壷(つぼ)(部屋)を出た時、若旦那の新三郎と出会った。
「おや、先生、お出掛けですか」と新三郎は馴れ馴れしく声を掛けて来た。
「ええ、ちょっと散歩に」
「生憎の雨降りで。そろそろ、梅雨に入ったようです」
「そのようですな」と一九は雨に煙る湯池を見下ろす。
「しかし、草津は涼しくていい。江戸は蒸し暑くてかなわねえ。それに、草津には蚊がいねえようだ」
「ええ、この辺りは臭(にお)いが強えですから、蚊はいねえんですよ。確かに、蚊遣(かや)りはいらねえし、蚊帳(かや)もいらねえのは助かります。あの、先生、草津を舞台に読本を書くって本当なんですか」
「ええ、ちょっと、書いてみようと思ってるんだ」
「俺、先生の本は結構、読んでんですよ。まあ、田舎だから江戸のように、みんな読む事アできねえけど、貸本屋にあるのはみんな読みました。『膝栗毛』は勿論、黄表紙も何冊も読みましたよ」
「ほう、そいつはありがてえ」
「今度、どんなのを書くんですか」
「まだ、はっきりとは決まってねえんだ。それで、ネタ捜しに行こうと思いましてな」
「先生、俺が案内しますよ」と新三郎は張り切って言った。
「そいつはありがてえが、色々と忙しいのでは」
「なアに、忙しいのは遊びだけですよ。実は俺も先生のように何かを書きてえと思ってんです。先生の仕事振りを見させて下さい」
「仕事と言っても、ほんとに書くのは江戸に帰ってからですよ」
「それはわかってます。でも、どんな風にネタ捜しをするのか、色々とためになりますよ」
一九は宿屋の番傘(ばんがさ)を借りて、新三郎と一緒に広小路に出た。
「先生、まず、どこに行きます」
「そうだな。昨日、お薬師さんには行ったから、『地蔵の湯』の方に行ってみるか」
「わかりました。こっちから行った方が近いです」
新三郎は滝の湯の左手にある坂の方に向かった。坂道の左側に黒岩忠右衛門(ちゅうえもん)の宿屋があった。
「ほう、これが鷺白(ろはく)先生の宿屋なのか」と一九は三階建ての建物を見上げた。
「ええ、そうです。でも、先生はもう隠居して、別の所に住んでます。後で御案内しますよ」
黒岩忠右衛門の宿屋の隣りには湯本平兵衛の宿屋があった。平兵衛の隠居は菅菰(かんこ)だった。
「こっちです」と新三郎は平兵衛の宿屋の脇にある坂道を示した。
「若旦那はずっと、ここで暮らしてるんですか」
「いえ。ついこの間まで、平塚(ひらづか)ってえとこにいたんですよ」
「平塚? 江戸に行く船が出てるという平塚河岸(がし)ですか」
「あれ、先生もご存じでしたか」
「いや、知ってるというわけじゃねえが、津の国屋の旦那んとこの下男の弥助がそこの生まれで、暇(ひま)を貰って、今朝、帰って行ったんだ」
「ああ、そうですか」
「随分、賑やかな所だとか」
「ええ、小せえ村だけど、結構、賑やかですよ。江戸から流れて来た者も多いし、近くに絹市(きぬいち)で有名な境宿(さかいじゅく)もあるし、ちょっと行けば、飯盛女(めしもりおんな)で有名な深谷宿もある。遊び場には事欠きません」
「ほう。で、どうして、また、そんなとこにいたんです」
「やっとうの稽古ですよ」
「やっとうというと剣術?」
「そうです。あそこに念流(ねんりゅう)ってえ上州で生まれた剣術の道場がありまして、そこに通ってたんですよ」
「そうでしたか。というと若旦那は結構、お強いわけですな」
「人様を斬った事はねえけど、ちょっとした喧嘩だったら負けやしません」
「そりゃア頼もしい。もしかしたら、宿屋の主人になるには、やっとうの方も強くなけりゃアならんのですか」
「そんな事はありませんよ。ただ、うちは昔、侍(さむれえ)だったらしくて、刀の使い方くれえ知らなくちゃアならねえってわけなんです。親父も死んだ爺様も剣術や弓矢の稽古に励んだらしいです」
「代々、やっとうをやって来たわけですな」
「俺の場合はやっとうよりも遊びの方が真剣でしたけど」