29.平兵衛池
「まさか、あいつがあんな事をするとはなア」
源蔵親分に連れて行かれる相模屋の後ろ姿を見送りながら津の国屋が言った。
「河内屋の奴にそそのかされたんじゃねえのか」と京伝が津の国屋の後ろで言う。
「とにかく、一件落着だな」と津の国屋と京伝が茶屋に戻って来た。
殺しの下手人は捕まったが、気は晴れなかった。皆、沈んだ顔をして茶屋の中に座っている。夢吉は隅でうなだれ、月麿と麻吉が慰めていた。
「あいつの言った事、本当なのかな」と藤次がポツリと言った。
「すべて、本当とは言えめえ。自分の都合の悪(わり)い事は誰でも隠すものだ」と鬼武が煙管(きせる)をくわえた。
「噂で聞いたんだが」と藤次がさらに言う。
「相模屋の旦那は上方から来た博奕(ばくち)打ちと霊巌寺(れいがんじ)(深川)裏の賭場(とば)に通ってたらしい。その話を聞いた時、まさかと思ったんだが、どうやら、上方の博奕打ちってえのは河内屋のようだ。案外、博奕につぎ込んで身代(しんでえ)を潰しちまったんじゃアねえのか」
「かもしれんぞ」と津の国屋がうなづいた。
「奴はかみさんが芝居(しべえ)茶屋に相模屋の悪口を言ったんで取り引きが減っちまったとか言ってたが、そんなのは初耳だぜ。それに、奴のかみさんが贔屓(ひいき)の役者を呼んで騒いだというのも聞いた事アねえ。確かに芝居好きでよく通ってたようだが、役者を茶屋に呼んだりはしなかったろう」
「そのおかみさんだけどね、河内屋の旦那とできてたんじゃないの」と豊吉が津の国屋のそばに来て言った。
「この前も、おえんがそんなような事を言ってたな」
「そうなのよ。それであたしも思い出したんだけど、酒屋の若い衆が噂してたのを聞いた事があるのよ。相模屋の旦那が留守の時、河内屋が何度も出入りしていたようよ」
「ほう、そんな噂が立ってたのか‥‥‥夢吉、おめえ、その事を知ってたのか」
津の国屋が聞くと夢吉はうなづいた。
「知ってたわ。清さんが言ってたのよ。お千代の奴、半次とうまくやってるようだって」
「相模屋も知ってたのか」
「知ってたというより、清さんが仕向けたんじゃないかしら」
「おめえの事をうるさく言うんで、河内屋をかみさんに押し付けたってわけか。ひでえ野郎だ」
「それを聞いて、あたし、清さんの事がだんだん信じられなくなってきちゃったのよ」
「あのう」と茶屋の親爺の隣りに座っていたおさのが声を掛けた。
「あたし、相模屋さんの事、あまり知らないんだけど、本当にあの人、身代を潰しちゃったんですか」
「らしいな」と津の国屋が答えた。
「そうは見えなかった。羽振りがよかったし。それに、あの人、桐屋に泊まった時、夢吉さんがどこかに行っちゃったって、やけ酒飲んでひどく酔っ払ったんですよ。その時、あたしの事、夢吉さんと間違えて変な事言ってたわ」
「変な事?」
「ええ。千両箱がおめえんちの庭に埋めてあるんだ。そいつを持って、どこか遠くに逃げようって‥‥‥」
「千両箱が埋めてあるだと。一体、何のこった。夢吉、おめえ、知ってるのか」
月麿が聞くと夢吉は首を振った。
「でも、千両箱の事はあたしにも言ったわ。どこかに隠してあるって。まさか、あのうちの庭に隠したなんて‥‥‥」
「おさの、おめえはその事を相模屋に聞き直したか」と津の国屋が聞く。
「いいえ。何で逃げなくちゃならないのかわからなかったし、なんだか、悪い事を聞いちゃったような気がして黙ってたのよ」
「庭に隠すったって千両箱なんかそう簡単に隠せやしねえだろう。おめえ、何か心当たりはねえのか」
月麿が聞くと夢吉は首を振ったが、何か思い出したらしく顔を上げた。
「そういえば、先月の半ば頃、朝早くから庭に桜の苗木を埋めてたわ」
「そいつだ。相模屋はおめえと逃げるつもりで店の有り金をそこに埋めたんだ」
「火事になったのはその後だな」と一九が聞いた。
夢吉はうなづいた。
「そうなると火事も怪しいぜ」と京伝が顎(あご)を撫でながら言う。
「千両箱を持ち出したのがばれねえように、火を付けたのかもしれねえな。多分、河内屋にやらせたんだろう。その後、夢吉と一緒に逃げるつもりだったが、夢吉が草津に行っちまったってえわけだ。ところで、夢吉、おめえ、本当のとこ、どうして、草津に来たんだ」
「それは勿論、別れるつもりで出て来たんです。清さんはおかみさんが出てけって怒鳴り込んで来たって言ったけど、ほんとは別れてくれって頼みに来たんです。最初に来たのは去年の春、相模屋が火事から立ち直って再建された後でした。その時は凄い見幕でやって来て、あたしも負けずに追い返してやりました。その後はしばらく来ません。そして、その年の秋、清さんのお義父(とう)さんが永代橋から落ちて亡くなってしまったんです。清さんはお義父さんに認められて婿(むこ)入りした人です。お義父さんが亡くなってから、どうも、清さんの立場が悪くなって来たんです。親戚の人たちが相談して、清さんを追い出そうとしているようでした。清さんはそんな事、何も言わないので、あたしは何も知らなかったんだけど、おかみさんがやって来て、このままだと追い出されてしまうから、どうか別れてくれと頼まれました。でも、あたしの母親もまた具合が悪くなって、突然、そんな事を言われてもどうしょうもなくって‥‥‥母親はその年の暮れに亡くなりました‥‥‥おかみさんが何とか説得したのか、清さんは追い出されずに済みました。母親が亡くなってから、あたしも色々と考えました。この先、ずっと囲い者で通すのか、それとも、別な生き方をした方がいいのか‥‥‥その後も、おかみさんは何度かやって来ました。でも、別れろとは口では言いません。言いませんがそれを願っているのはわかります。おかみさんと話をしているうちに、そろそろ、身を引くべきなのではと思うようになったんです‥‥‥河内屋が出入りするようになったのは去年の十月でした。清さんは世話になった上方の商人が江戸見物にやって来たというだけで詳しい事を話してくれません。おかみさんが河内屋とうまくやってるようだって言ったのは十二月に入ってからです。これで、あいつもうるせえ事を言わなくなるだろうって、ニヤニヤしながら言いました。確かに、その後、おかみさんが来る事はなくなりました。でも、あたしの心はだんだんと清さんから離れて行ったんです。母親が倒れて、色々と面倒を見てもらったのに、母親が亡くなったら急に気が抜けちゃって‥‥‥自分勝手な事はわかってるんだけど駄目なんです。もう一度、やり直したいって気持ちが強くなって‥‥‥そして、あの火事が起こりました。あたし、相模屋の身代が傾いてたなんて知らなかったんです。また、すぐに立ち直るだろうと思ってました。あたしがいなくなれば、おかみさんも目を覚まして河内屋と別れ、きっと、うまく行くだろうと思ったんです‥‥‥あたしは何もかも捨てて草津に来ました。しばらく、江戸を離れて、やり直そうと思ったんです。まさか、清さんがあたしを追って来るなんて夢にも思っていなかった。そして、あんな事になるなんて‥‥‥」
「夢吉、自分を責めるんじゃねえよ」と津の国屋が言った。
「昔の火事場泥棒のつけが今になって報(むく)いとなってやって来ただけだ。逆に考えりゃア、身を引いてよかったんだ。もし、草津に来なけりゃア千両箱を持って相模屋と一緒に逃げるはめになってたかもしれねえ。そうなりゃア、おめえもお縄に掛けられる。別れてよかったんだよ」
「そうよ、ねえさんらしくないじゃない。いやな事なんか早く忘れちゃいましょ」
麻吉が言うと豊吉も、
「早く、昔のねえさんに戻ってよ」と励ました。
「相模屋の事はそれくれえにして、そろそろ出掛けようぜ」と鬼武が煙管と煙草入れをしまった。
「久し振りのいい天気なんだ。こんなとこで、しけた面を並べてる手はねえ」
春吉が三味線を鳴らすと、都八が唄い出し、太鼓持ちの善好と藤次が滑稽な踊りをして、皆を笑わせた。和(なご)やかな雰囲気になった所で、一行は平兵衛池へと向かった。
京伝、鬼武、津の国屋、一九、都八、善好、藤次、長次郎、月麿に夢吉、それに桐屋の芸者衆が梅吉、春吉、おさの、豊吉、麻吉、それに矢場の女、お富と総勢十六人の大所帯でぞろぞろと山道を登って行った。
昨日まで毎日、雨が降り続いていたとは思えない程、青空が広がりいい天気だった。小鳥たちがさえずりながら飛び回り、シャクナゲの花も見事に咲いていた。
一行が平兵衛池に着いたのは正午(ひる)を回った頃だった。山の中の池は鏡のように美しく静まり返っていた。
「こいつア伝説が生まれるのも無理アねえ」
一九は景色に見とれながら麻吉に言った。
「ほんと。綺麗なとこね。来てよかったわ」
二人がうっとりしながら景色を眺めていると、
「残念だったな」と誰かが一九の耳元で囁いた。
振り返ると鬼武が笑っていた。
「しょうがねえや」と一九も笑いながら言う。
「あんな騒ぎがあっちゃア、仕込みもできねえ」
「まったくだ」
「ねえ、なに、仕込みって」
麻吉が二人の顔を見ながら聞く。
「ほんとはな」と一九が麻吉の耳元で囁く。
「ここで茶番をやって、京伝先生と津の国屋の旦那を驚かそうと思ってたんだ」
「へえ、そうだったの」と麻吉も小声で言って、興味深そうに、
「ねえ、どんな事、やるつもりだったの」と聞いて来る。
「あの池から平兵衛の娘を出そうと思ったんだがな、ちょっと無理だった」
「池の中から娘を出すなんて無理よ。そんなのできっこないわ」
「いや、奥山(浅草)や両国あたりに出ている女軽業師を使えばできねえ事アねえが、今の時期、草津に軽業師なんかいねえそうだ」
「茶番はできなかったが、まあ、楽しくやろうぜ」
鬼武は一九の肩をたたき、
「そろそろ、江戸に帰らなけりゃならんからな、いい思い出を作ろうぜ」といそいそと春吉のそばへと行った。
持って来た茣蓙(ござ)を広げ、桐屋特製の弁当を肴(さかな)に酒盛りが始まった。
都八が三味線を弾くと津の国屋が十八番の『助六(すけろく)』を唄い出した。皆がやんやと喝采(かっさい)する。
藤次が飛び出し、用意して来たのか、江戸紫の手拭いを鉢巻きにして、尺八を腰に差し、蛇の目傘を広げて団十郎気取りで踊りだした。
一九も麻吉の酌でいい機嫌で飲み始めた。
津の国屋の次には、京伝が古い流行(はや)り唄を唄い出した。京伝が吉原に入り浸っていた頃、流行っていた唄だった。一九も昔を思い出しながら懐かしく聞いていた。
その頃、蔦重(つたじゅう)の旦那がいた。歌麿師匠もいた。そして、写楽がいた。一九は蔦重に居候(いそうろう)しながら黄表紙を書いていた。あれから毎年、二十作もの黄表紙を書きまくった。『膝栗毛』が売れたお陰で、有名な戯作者となったが、まだ、自分が満足する作品は書いていない。今度書く草津を題材にした読本は是非ともいい作品にしたいと思った。
「相模屋さん、可哀想ねえ」と一九の左隣りにいるおさのがポツリと言った。
「いい人だったのに、あんな事になって‥‥‥ほんとに可哀想‥‥‥」
おさのが相模屋の事を話題にしたので、夢吉に聞こえはしまいかと心配したが、夢吉は離れた所で月麿に酌をしながら京伝の唄を聞いていた。
「おい、おめえ、相模屋に惚れてたわけじゃアあるめえ」と一九は笑いながら冗談を言った。
おさのは思い詰めたような顔をして一九を見つめると、
「そうかもしれない」とうなづいた。
「夢吉さんには悪いけどさア、あの人、夢吉さんと一緒になりたいがためにあんな事をしちゃったんでしょ。可哀想よ。あたしだったら一緒に逃げてやるのに‥‥‥ほんとはあの人、あたしにどこかに行こうって誘ったんです。どこか遠くに行って、二人だけで暮らそうって」
「相模屋がおめえを誘っただと」
冗談を言うなと一九はおさのを見たが、おさのの顔は真剣そのものだった。
「そうよ。夢吉なんか、もう、どうでもいい。あんな気の強え意地っ張り女は月麿に熨斗(のし)を付けてくれてやらアって、はっきり言ったのよ。そして、あたしを連れて遠くに行くって言ってたのに‥‥‥あたし、馬鹿だったわ。桐屋であの人を待ってればよかったのに、梅吉ねえさんに頼まれて、のこのこ、こんなとこに来たから、あんな事になっちゃって」
「おめえ、何を言ってんだ」
「あの人、あたしの後をつけて来て、捕まっちゃったのよ」
「馬鹿言うねえ。奴は夢吉を追って来たんだ」
「いいえ、それは違う。あたしなのよ」
おさのは首を振りながら、懐(ふところ)から紙切れを出して一九に見せた。
「何でえ、こいつは」
「あの人から昨夜(ゆうべ)、貰ったのよ」
「何だと、おめえ、相模屋に会ったのか」
「そうじゃないの。あたし、昨夜は湯角(ゆかく)さんとこのお座敷に出てたの。帰って来たら、うちの仲居さんから貰ったのよ」
一九が紙切れを広げてみると、
『明日正午、金毘羅さんに来てくれ。相清』と走り書きで書いてある。
「こいつは間違えなく、相模屋の字なのか」
「間違いないわ。でも、あたし、あの人は死んだものとばかり思ってたから、なんだか気味が悪くて‥‥‥誰かがあたしをからかってるに違いないって信じなかったのよ。きっと、あの人、ずっと、桐屋のそばに隠れてて、あたしがみんなと一緒に出掛けるのを見てたのよ。それで、後を追って来て‥‥‥」
「奴が夢吉からおめえに乗り換えたってえのか。信じられねえ」
「そんな事、信じられないわ」と話を聞いていた麻吉も驚いていた。
「信じられないったって、ほんとの事なんだから。あの人はあたしと逃げるはずだったのよ。それなのに、どうして捕まえちゃったの。ねえ、あの人、この先どうなっちゃうの」
「相模屋は夢吉を諦めたのか‥‥‥」
信じられなかったが、おさのが嘘をついているとは思えなかった。
「ねえ、あの人、どうなっちゃうのよ」
おさのは一九の膝を揺すりながら、泣きべそをかいている。
「人を殺しちまったからな、それに、昔の事とは言え、五十両も盗んじまったんじゃア死罪は免れねえだろう」
「えっ、死罪‥‥‥そんな‥‥‥先生、どうして逃がしてやらなかったんです」
「逃がすったって、おめえ、相手は人殺しだ。そんな事アできねえだろう」
「あたし、先生たちを恨みますよ」
「恨むって、おめえ、何を言ってんだ」
おさのは涙を拭くと恐ろしい顔をして、一九を睨んだ。
「おさのさん、どうしたのよ、そんな怖い顔をして。まあ、一杯、いきましょ」
麻吉が盃を渡して、酒を注いでやった。
「なにさ、田舎芸者だと思って馬鹿におしでないよ、ふん」
おさのは盃を放り捨てた。
「何するんだい。わちきが注いだお酒は飲めないって言うのかい」と麻吉が怒った。
「そんなもん、飲めるもんか」
「言ったわねえ」
一九を真ん中に二人の女が取っ組み合いを始めた。一九がなだめるが二人とも聞かない。そのうち、どうしたものか、麻吉が急に苦しみだした。喉を押さえるようにしてもがき、それを見ながら、おさのがケラケラ笑っている。
麻吉は口から血を吐くとその場に倒れてしまった。一九は慌てて、麻吉を抱き上げたが、すでにぐったりとしている。
「おい、どうした、しっかりしねえか。おめえ、何をしたんだ」
おさのは笑いながら、
「あの人の敵(かたき)討ちさ。あの人より先に、みんな、一緒にあの世に送ってやるんだ」
「くそっ、おめえ、気がふれやがったな。おい、みんな、大変(てえへん)だ。早く来てくれ」
「おい、春吉、大丈夫か」と鬼武が叫んだ。
一九が振り返ると、春吉が苦しんでいた。
「助けて‥‥‥」と言いながら、春吉は鬼武にすがるようにして倒れた。
春吉を抱きとめた鬼武も苦痛に顔を歪めている。
「鬼武さん、大丈夫か」
「くそっ、やられたようだ。誰かが酒に毒を盛りやがった」
鬼武は一九の方に手を差し出しながらも血を吐いて倒れた。みんなの方を見ると全員が苦しそうにもがいている。
「畜生、どうなってんだい。おい、みんな、しっかりしろ」
鬼武の隣りでは豊吉と津の国屋が重なり合うようにして倒れ、都八が三味線を血に染めて倒れている。唄を唄っていた京伝も倒れ、梅吉も倒れ、お富が苦しそうにもがいていた。善好がうつ伏せに倒れ、夢吉を抱くようにして月麿も倒れている。藤次は紫の鉢巻きをしたまま倒れ、長次郎は水を飲もうとしたのか、池のほとりで伸びていた。
お富が苦しそうに呻(うめ)き、血を吐いた。
「みんな、死んじまった。いい気味だ」
おさのが気が狂ったように踊っていた。
一九も腹の具合がおかしくなって来た。
俺も死ぬのか‥‥‥畜生、どうしてこんな事になるんだ‥‥‥
「おい、みんな、起きろよ。起きてくれ」
「相模屋の旦那、あたしも先に行って待ってるからね」
そう叫ぶとおさのは池の中に入って行った。
「おい、やめろ、やめるんだ」
一九はおさのの後を追って行った。しかし、間に合わなかった。おさのはどんどん池の中に入って行き、ついには沈んで見えなくなった。一九は呆然とおさのが消えた池の水面を見つめた。
目の前で起こった事が信じられなかった。夢なら覚めてくれと頬をつねった。紛れもない現実だった。一九は腰まで水に浸かったまま、ゆっくりと振り返った。
シーンと静まり返った中、みんなが倒れていた。
「祟(たた)りだ」と呟いた。
「平兵衛の娘の祟りに違えねえ‥‥‥畜生、どうすりゃいいんだ」
一九は池から上がるとほとりに倒れている長次郎の体を揺すった。反応はなかった。藤次も苦しそうな顔をして死んでいた。よく見ると、藤次は紫の鉢巻を左側で結んでいた。
「馬鹿野郎、助六の鉢巻は右側で結ぶんだ。それじゃア病(やめえ)鉢巻じゃねえか。病鉢巻をして死ぬたア情けねえ野郎だぜ」
そう言いながら、一九は泣いていた。涙をこすると月麿と夢吉のそばに行った。月麿はしっかりと夢吉を抱いていた。
「どうして死んじまったんだよお。せっかく、夢吉と一緒になれたのに、このくそったれが」
善好は悔しそうに草を握り締めたまま死んでいた。お富は余程、苦しかったとみえて、胸をはだけ、裾を乱してあられもない姿で死んでいる。
「色っぺえ格好で死にやがって。むき身が風邪ひくぜ」
一九はお富の裾を直してやった。お富の乱れた髪の上の方で京伝が倒れていた。自慢の銀煙管を左手に持ち、真っ赤に染まった手ぬぐいを右手で握り締めていた。
「先生、どうして死んじまったんだよう。江戸に帰って、俺はみんなに何て言やアいいんだ‥‥‥」
京伝の隣りでは、梅吉が丸くなって死んでいる。都八は血で汚れた三味線を大事そうに抱えたまま倒れている。
津の国屋は首を両手で押さえたまま仰向けに倒れ、血に染まった津の国屋の胸の上に豊吉がうつ伏せに倒れていた。
「旦那もどうしちまったんだ。こんなとこで死ぬなんて旦那らしくねえじゃねえか。まあ、心中(しんじゅう)だと思えば旦那らしいが‥‥‥畜生、みんな、死んじめえやがって、俺ア一体、どうしたらいいんだ」
突然、風が吹いて来た。藤次が持っていた蛇の目傘が池の方に転がって行った。池にさざ波が広がった。おさのが沈んだ辺りの水面に不気味な雲が映っていた。
空を見上げると黒い雲が山の方から流れて来ていた。伝説の通り、大雨が降るに違いない。雷が鳴って、波が逆巻き、龍が出て来るに違いない。おさのが龍になって、この池はおさの池って呼ばれるようになるのかもしれない。
ペペンと三味線が鳴った。
一九は都八を見た。風で都八の持っている撥(ばち)が揺れ、三の糸が鳴ったようだった。急に気味が悪くなって身震いした。腹が差し込むように痛みだした。
一九はひざまずいた。気が遠くなるようだった。
「やっぱり、俺も死ぬのか‥‥‥お民、すまねえなア。江の島に連れてってやるって約束したのに、このざまじゃアできそうもねえや」
また、三味線が鳴った。
一九は都八を見た。なんとなく、撥を持っている都八の手が動いたような気がした。目もおかしくなって来たのか、と目をこすって、もう一度、三味線をじっと見つめた。
都八の右手が微かに動いて、三味線が鳴った。そんな馬鹿なと思っていると、都八の右手はまるで生きているかのように動きだし、『助六』を弾き始めた。と、同時に大笑いが起こった。
津の国屋と豊吉が口に血をつけたまま、一九を見て大笑いし、京伝は腹を抱えて笑っている。
「うまくひっかかったのう」と鬼武が一九を指さし、膝をたたいて笑い、月麿と夢吉までが笑っている。
「畜生、みんなして俺をはめやがったな。ええ、いめえましい。まったくもう、冗談しっこなしだぜ」
「一人だけ生き残った気分はどうだ」と京伝が涙を拭きながら言った。
「どうもこうもねえや。まったく、ひでえ事をしやがる。どいつもこいつも、よくも騙しやがったな」
「湯平の娘の祟りに違えねえ」と善好が一九の口真似をした。
「祟りじゃ、祟りじゃ」と言いながら鬼武が笑った。
「畜生、みんな、許さねえぞ。みんなして俺をこけにしやがって‥‥‥あれ、てえ事はおさのの奴もぐるだったのか」
振り返るとびっしょり濡れたおさのが笑っていた。
「あたしの芝居もなかなかのもんでしょ」
「まったく、大したもんだよ。半四郎顔負けだア。さては、張本(ちょうほん)は鬼武さんだな」
「まあな」と鬼武は笑いながら、うなづく。
「池から娘を出すのは難しいが、敵討ち物ならお手のもんよ」
「まったく、先生と旦那を騙そうと言っておきながら、俺を茶番にかけるたア裏切りもんだぜ」
「そう言うな。しかし、うまく行った。せっかく、こんなとこまで来て、ただ、酒を飲むだけじゃア芸がねえからな」
「なにもみんなして血を吐いて死ぬ事もねえだろうに、まったく、ぶったまげたぜ。俺まで死ぬんじゃねえかと心配(しんぺえ)だった」
一九とおさのが濡れた着物を着替え、津の国屋も血糊(ちのり)の着いた着物を着替えると再び、賑やかな宴会が始まった。
どこかで、のどかにカッコウが鳴いていた。