9.歓迎の宴
宿屋に戻ると一九と津の国屋は帳場のある建物の三階の広間に案内された。ここも眺めがよく、床の間の付いた立派な広間だった。すでにお膳が並び、都八が一人、部屋の隅で壷廻りの女、おかよと何やら楽しそうに話している。
「お帰りなさいませ」とおかよは頭を下げると出て行った。
後ろ姿を見送りながら、
「可愛い娘だ。あれだけの娘は江戸にもそうはいめえ」と津の国屋が笑った。
「桐屋の料理だそうです」と都八がお膳を示した。
「ほう、大(てえ)したもんだな。江戸の料理屋なみじゃアねえか」
一九は煙草盆のそばに座ると、
「月麿はどうした」と都八に聞いた。
「それが、夢吉の帰(けえ)りを待つって中善に居座ってんですよ。豊吉(とよきち)たちと会ったそうですね。今、喜んで支度をしてます」
「相模屋は見つかったのか」と津の国屋が腰の煙草(たばこ)入れを外して煙管(きせる)を取り出した。
「それが、中善の隣りにある山本十右衛門に泊まってました」
「なに、本当に来てたのか」
津の国屋は煙草を詰める手を止め、信じられないという顔をした。
「まさか、追って来るとはなア」
「へい、驚きましたよ。一昨日、こっちに着いたようです。それが、やっと見つけたんですよ。まず、ここの帳場で聞いて、それから、広小路に出て、すぐ右側にある宮崎文右衛門で聞いて、その隣りの坂上(さかうえ)治右衛門(じえもん)、中沢杢右衛門、湯本角右衛門と順番に聞いて行って、やっと、山十(やまじゅう)にいたってわけです。ところが、やっこさん、てめえんちが燃えちまったってえのに、いい身分で遊んでやがるんですよ。一緒に来た連れと桐屋に入り浸ってんです」
「で、夢吉もその桐屋にいたのか」
「それが、相模屋の奴も夢吉を捜してるようで。一昨日、中善にいる夢吉を見つけて会って、昨日も会ったらしいんだけど、今日、会いに行ったらいなかったそうです。その後、捜し回ったけど見つからなくて、やっこさん、河内(かわち)屋ってえ連れとやけ酒くらってましたよ」
「河内屋? 何者だ」
「さあ、酒屋仲間じゃねえですか。でも、あの面構(つらがめ)えはただの旦那じゃねえな。あくでえ商売(しょうべえ)をしてるに違えねえ」
「河内屋か‥‥‥」と津の国屋は考えていたが、
「聞いた事アねえな」と首を振った。
「とにかく、夢吉が相模屋と一緒じゃねえとすると、一体(いってえ)、どこに行っちまったんだ」
「さっぱりわからねえ」と都八も首を振る。
「月麿の奴は相模屋と一緒じゃねえ事がわかって喜んでますがね」
「妙だな。雨っ降りにそう遠くへ行くめえとは思うが」
「そのうち、ケロッとした顔で帰って来ますよ」
「そうだな。帰って来りゃア豊吉たちと一緒にここに来るだろう。あれ、豊吉たちは相模屋の面を知らねえのか」
「それが知らねえんだそうです。噂にはよく聞くけど、二人とも会った事はねえそうで。あれが相模屋の旦那だったのって、たまげてましたよ」
「へえ、そうかい。もっとも、やっこさんは夢吉一筋だったからな」
津の国屋は心配している様子はないが、一服つけながら話を聞いていた一九は何となく、いやな予感がした。
「おい、おめえ、おかよちゃんと何を話してたんだ。やけに親しそうだったじゃねえか」
津の国屋がニヤニヤしながら都八に聞いた。
「なに、ちょっと、江戸の話をしてやってたんですよ。月麿に聞いたんですけどね、壷廻りの女ってえのは口説き次第(しでえ)で、いい思いができるらしいですよ」
「なに、そいつは本当か」と津の国屋は吸い殻を灰吹(はいぶき)に捨てると目の色を変えた。
「本当ですよ。草津には宿場と違って飯盛女はいねえんです。その代わりに宿屋にいる壷廻りの女とか水汲み女は口説き次第では客を取るそうです。水汲み女ってえのは力仕事だから、年増ってえか、中年の女が多いんだけど、壷廻りの女はみんな若くて、着飾って壷を廻ってんですよ。おかよちゃんみてえに土地の娘はわりと少なくって、春になるとあちこちから流れて来て、宿屋に雇われるんです。男で苦労してる女も多いらしくて、口説き次第で、ころっと行くそうですよ」
「ほう、そいつはいい事を聞いた。それで、おめえ、おかよちゃんを口説いてたのか」
「いや、まだ、そこまでは行きませんよ。商売女と違って素人(とうしろ)ですからね。露骨に言ったら嫌われちめえます。少しづつ慣らして行かねえと」
「何を知った風な事を言ってやがる。そういやア、漬物売りの娘はどうなんだ。さっき、可愛いのがいたぞ」
「さあ、そこまでは聞かなかったけど腕次第じゃアねえですか」
「旦那、見て下せえ。こいつは歌麿師匠が描いた肉筆(にくひつ)だ」
床の間の掛け物を眺めていた一九が振り返った。
「どれ」と津の国屋と都八が床の間にやって来た。
「ほう、こいつは、まさしく師匠の絵だ」
それは吉原の花魁(おいらん)を描いたものではなく、母親が子供を抱いている姿だった。
「草津に来た時に残してったのかな」
「多分、そうだろう」
「十年前(めえ)といやア、師匠の全盛の頃だ。あの頃、こんな絵を描いたとは知らなかった」
「旦那、成田屋の歌もありますよ」と都八が言う。
床の間の脇の柱に狂歌を書いた短冊(たんざく)が飾ってあった。
つねひごろ心やすべえと思えども
またもや世話になりたやの弟子
安兵衛どのへ 六代目団十郎
「六代目(ろくでえめ)といやア、二十二で若死にしちまった団十郎だ。風邪をこじらせて亡くなっちまったが、この歌を見ると体が弱くて、ちょくちょく湯治に来てたのかもしれねえな」
「六代目ってえと今の七代目(しちでえめ)の叔父さんに当たるんですよね」と都八が考えながら聞く。
「七代目は六代目の姉(あね)さんの子だから、そういう事になるな」
「七代目もここに泊まってんでしょう」
「七代目はまだ十八の若さだ。来てるかどうかは知らねえが、五代目は何度も来ていたはずだぜ」
「成田屋の一行が来た時はそりゃア凄えでしょうねえ」
「そりゃそうだろう。草津中が大騒ぎだ。成田屋が入った後の湯に女どもが競って入るに違えねえ」
床の間の飾り物を眺めていると主の安兵衛がやって来た。
「今宵はまことに勝手ながら、ささやかな宴を開かせていただきます。どうぞ、心行くまで、草津の夜をお楽しみ下さい」
安兵衛は草津の文人たちを一九らに紹介した。まず、俳諧(はいかい)の師匠である雲嶺庵(うんれいあん)鷺白(ろはく)、鷺白の弟子の鴻寮菅菰(こうりょうかんこ)、同じく鷺白の弟子で草津の名主を務める坂上治右衛門、草津の歴史に詳しい中沢眺草(ちょうそう)と横山夕潮(せきちょう)だった。
鷺白は黒岩忠右衛門(ちゅうえもん)という宿屋の隠居、菅菰は湯本平兵衛という宿屋の隠居で、年の頃は共に六十前後で頭を丸め、十徳(じっとく)を着ていた。
名主の治右衛門は四十の後半で湯安の隣りにある宿屋の主人であった。伜も俳諧をやっていて、今、江戸で修行中だという。その伜は後に一夏庵竹烟(いっかあんちくえん)と号し、鷺白の亡き後、草津の俳壇の中心となって活躍する。
眺草は真っ白な髪をした七十近くの小柄な老人で、中沢杢右衛門という宿屋の主人の叔父だという。夕潮は六十前後で、ただ一人、草津生まれではなく、加賀の国(石川県)から草津に来て住み着き、小さな宿屋をやっている。眺草は鎌倉時代の事に詳しく、夕潮はその後の戦国時代の事に詳しいという。
それぞれの紹介が終わった頃、どやどやと芸者衆がやって来た。六人の綺麗どころが着物の裾(すそ)をさばきながら入って来た後、太鼓持ちらしい男と太鼓持ちには見えない若い男が入って来た。
「なんだ、おまえ、また、桐屋さんで遊んでたのか」と安兵衛が若い男に言って、苦々しい顔をした。
「なんとまア、偉えお人が顔を揃えて。親父もいるんじゃ、のこのこついて来るんじゃアなかった」
「何を言ってる。さっさとここに来て、挨拶をせんか。まったく困ったもんで、これがうちの総領なんです」
「新三郎です」と若い男は父親の隣りに来て座り、頭を下げた。
「あれ、おめえ、こんなとこにいたのか」と津の国屋が太鼓持ちに声を掛けていた。
「へへっ、どうも、御無沙汰で」
「吉原を追ん出されたと聞いちゃアいたが、まさか、こんなとこにいるたア、まったく、ぶったまげたぜ」
一九が太鼓持ちを見ると、太鼓持ちも軽く頭を下げた。そのとぼけた面には見覚えがあった。
「たまげたのはこっちでさア。まさか、旦那が来ていて、そのお座敷に呼ばれるたア思ってもおりませんでした。しかも、一九先生もご一緒とは」
「なんだ、平七はお二人をご存じだったのか」
安兵衛が驚いた顔をして聞いた。
「へい。お二人共、江戸では名の知れた遊び人でして、吉原では知らぬ者はおりません。一九先生など、若え頃はもう吉原で暮らしていたようなもんで」
「これ、昔の事を言うな」
一九は照れくさそうに手を振った。
「まったく、こんなとこでおめえに会うとは」
「へっへっ、あの頃はよく遊びましたねえ」
「もう言うなってえのに」
「まあまあ、とりあえずは、お近づきの印に、まず、一献(いっこん)」
宴が始まった。芸者たちが江戸振りの歌と踊りを披露し、一九たちは盃を重ねていった。六人の芸者のうち、以前、深川にいた梅吉と春吉の二人は一九も知っていた。後の四人は地元の芸者で、お夏、お糸、おそよ、お峰という名だった。四人共、梅吉らに仕込まれたのか、決して田舎臭くはなかった。
四半時(しはんとき)(三十分)程して、中善に泊まっている豊吉と麻吉(あさきち)が生粋(きっすい)の深川芸者というなりでやって来た。やはり、地元の芸者とはどこかが違った。当時、流行の最先端を行っていたのは深川芸者だった。歌も踊りも髪形も着物の模様や着方まで芸者たちが考えだし、町の娘たちが真似をして流行となり、江戸から田舎へと流行(はや)って行った。流行の流行りすたりは現代と一緒で一年経てば、すっかり時代遅れになってしまう。いくら、田舎で真似をしても、本場の芸者にはかなわなかった。
豊吉たちと一緒に深川の太鼓持ち、藤次(とうじ)も来た。そして、しょぼくれた月麿も帰って来た。
「先生、夢吉の奴、まだ、帰って来ねえんですよ」
今にも泣き出しそうな情けない顔をして、一九の隣りに座った。
「夢吉ねえさんがどうかしたのですかな」と治右衛門が聞いた。
「あれ、夢吉をご存じなんですか」と月麿が顔色を変えて聞く。
「ご存じという程のもんじゃないが、二、三日前、中善さんで、ちょっとした集まりがありまして、中善さんが今、うちに深川の芸者衆が泊まっているから、ちょっと呼びましょうという事になったんですよ。あの二人と夢吉ねえさんも来ましたよ。いやア、驚きました、あれ程の別嬪(べっぴん)がいるとは。話に聞くと何でも、桐屋さんで働くとか。あのねえさんが草津にいてくれるとはありがたい事ですよ。今日は見えんようだが、どうかしたんですか」
「それが、どこかに消えちまったんです」
「消えた?」
「はい、昼間、出たきり、まだ、帰って来ねえんで」
「それは大変ですな。何かあったんでしょうか」
「なに、大丈夫ですよ」と一九が心配顔の治右衛門に言う。
「心配ありません。子供じゃアねえんですから。こいつは夢吉に惚れきっていて、江戸から夢吉を追いかけて来たんです。せっかく、会いに来たのに会えねえもんだから、大袈裟に騒いでるんですよ」
「そうだったんですか。まあ、何事もなければいいが‥‥‥」
月麿は落ち着いて酒も飲めず、途中で席を立ち、中善へと行った。
「草津の湯は天平(てんぴょう)年間(七二九年~七四八年)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)様によって発見されたと伝えられております」とまず、眺草が話し出した。
「行基菩薩は奈良の東大寺の大仏様を作られた偉いお坊様でございます。行基菩薩に発見された草津の湯は湯治場として栄えましたが、近在の者たちが利用する程度で、それ程、有名ではありませんでした。草津の湯が全国的に有名になりましたのは、建久(けんきゅう)四年(一一九三年)、源頼朝(みなもとのよりとも)公が草津に来てからの事でございます。鎌倉の将軍様がお入りになった事によって、草津の湯は天下に知れ渡って行ったのございます。鎌倉からも、また、京の都からも様々な人が湯治に来られたと思われますが、残念ながら、古文書(こもんじょ)類が残っておりませんので詳しい事は分かりません。今の所、古い物では、文明四年(一四七二年)に本願寺の蓮如上人(れんにょしょうにん)様が来られた事が分かっております。京都では応仁の乱が続き、戦国の世が始まった頃の事でございます」
「戦国の世になりますと、様々な人が草津にやって参ります」と夕潮が話を引き継いだ。
「明応四年(一四九五年)には太田の金山(かなやま)城主、由良成繁(ゆらなりしげ)が三百人もの家来を連れて草津に来られました。その当時、三百人を収容できる湯宿があったものと思われます。文亀(ぶんき)二年(一五〇二年)には連歌師(れんがし)の宗祇(そうぎ)が弟子の宗長(そうちょう)を連れて草津に来られました。宗長はその後、永正(えいしょう)六年(一五〇九年)にも再び、草津にやって来ます。大永(だいえい)六年(一五二六年)には越後の守護代(しゅごだい)、長尾為景(ためかげ)が家来を引き連れてやって参ります。為景は上杉謙信(けんしん)の父親でございます。その当時、草津の地を治めていた武将に湯本善太夫(ぜんだゆう)という人がおりました。善太夫は甲斐の武田信玄(しんげん)に仕え、活躍いたしますが、長篠(ながしの)の合戦で戦死してしまいます。善太夫の後を継いだのが湯本三郎右衛門で、三郎右衛門は真田家に仕えて活躍いたします。三郎右衛門が草津を治めていた頃には、太閤秀吉公の妹で権現(ごんげん)様(徳川家康)に嫁いだ朝日姫、秀吉公の養子になられた豊臣秀次(ひでつぐ)、加賀百万石の領主、前田利家公らが草津に来られました。太閤秀吉公も草津に来る予定でしたが、実現は致しませんでした。権現様は草津に来る事はなく、草津の湯を江戸城まで運ばせて湯にお入りになりました」
眺草と夕潮の話はさらに続いた。一九は一言も漏らさず、二人の話を手帳に書き込んでいた。
津の国屋は鷺白や菅菰らと俳句や狂歌について談じている。都八は三味線を弾きながら安兵衛と治右衛門に一中節や新内(しんない)節を教えている。やがて、宴もたけなわとなり、真面目な話はすっかり消えて、芸者を相手にふざけあったり、一九は得意な落とし話でみんなを笑わせ、津の国屋は都八の三味線で渋い喉を披露した。
月麿は浮かない顔をして、中善に行ったり来たりしている。いつの間にか、若旦那の新三郎はいなくなっていた。