17.再会
雨降る中、薬師堂はひっそりとしていた。石段の上でウロウロしている月麿の他、人影は見えなかった。
「おい、夢吉はいねえのか」
一九が石段を登りながら声を掛けると、
「どこにもいねえ」と情けない顔をして首を振る。
「先生、悲しい虫ってえのは、蛙(かわず)の事かい」
「だろうな。今頃、鈴虫は鳴くめえ」
「先生、あの謎には夕べと書いてあったが、日にちは書いてなかった。もしかしたら昨日の夕べだったんじゃアねえか」
「かもしれねえな。おめえが早く、謎を解かねえから、この雨ん中、待ちくたびれて帰(けえ)っちまったそうだ」
「そんな‥‥‥」
「いや、夢吉は来るよ」と津の国屋が自信ありげに言った。
「どうも、夢吉はおめえの動きをじっと見てるような気がするぜ。どこかで、おめえがここに来たのを見て、やって来るに違えねえ」
「そうだ。絶対に夢吉は来る」
月麿は大きくうなづいて、石段の上から広小路を見下ろした。
「夢吉ねえさん、どんな顔してやって来るんだろ」と豊吉が麻吉に言った。
「きっと、会いたかったって、月麿さんに飛びつくんじゃないの」
麻吉が言うと、
「馬鹿言うねえ。そんな事あるかい」と月麿は照れたが、嬉しそうにニヤニヤしている。
「月麿さん、何年振りの御対面だい」と藤次が月麿の顔を覗く。
「そうさなア、夢吉の奴は俺が手鎖(てぐさり)になった時、相模屋んとこに行っちまったからな。あれから丁度、丸四年にならア」
「ねえ、四年間、一度も会わなかったの」と豊吉が聞く。
「ああ、一度も会っちゃアいねえ」
「四年か‥‥‥長いわねえ。夢吉ねえさん、変わっちゃったかもよ」
「なんだと。おめえたち、夢吉と一緒に来たんだろ。夢吉の奴は変わってたのか」
「心配(しんぺえ)するねえ」と藤次が月麿の肩をたたく。
「あっしが見たとこ、ねえさんは変わっちゃアいなかったよ。昔と同じさ。いや、昔より、もっと色っぽくなっていやがった」
「おう、そうかい。こん畜生め、早く会いてえなア」
月麿は待ち切れなくて、仁王門の所まで降りて行った。見ちゃアいられねえと津の国屋は豊吉と麻吉を連れて薬師堂の軒下に行って雨宿りをする。藤次も後を追って行った。
津の国屋らがいなくなると新三郎が一九に声を掛けて来た。
「先生、俺、ずっと考えてたんだけど‥‥‥」
「お鈴ちゃんの事かい」と一九は聞いた。
新三郎は一九を見つめて、うなづいた。
「会って来たのか」
新三郎は首を振った。
「もう帰った後でした」
「そうか。あの娘(こ)はしっかりした娘(むすめ)さんだよ」
「はい。もう一度、ちゃんと話をしたかったんだけど‥‥‥」
「相手は奉公人(ほうこうにん)の娘、おめえさんは若旦那だ。難しいな」
「ええ、でも‥‥‥」
「あの娘の心をつかむには、おめえさんもそれなりの覚悟を決めなくちゃアならねえよ」
「それなりの覚悟ですか」
「そうさ。あの娘だって好きで、あんなかってえの中に入(へえ)ってったわけじゃアねえだろう。医者としてやらなけりゃならねえと覚悟を決めて入ってったんだ。そいつは並の覚悟じゃねえ。命懸けの覚悟だ。あんな事をしてる事が村の者たちに知れたら、どんな陰口をたたかれるか、わかったもんじゃねえ。何もかも捨てて掛かってるんだ。そんな娘を相手にするからには、若旦那の方も何もかも捨てる覚悟じゃねえと相手にはされねえぞ」
「‥‥‥」
16.解けた謎
中善(なかぜん)を出た月麿は真っすぐ、通りを挟んだ山十(やまじゅう)に行って、相模屋がまだいるかどうかを聞いた。
山十の番頭は、相模屋は連れの河内屋と一緒に今朝早く、白根山に登ったと答えた。戻って来るんだろうなとしつこく聞くと、お金を預かっているので、必ず戻って来ると言い切った。月麿は安心して、一九がもう帰っているかもしれないと土砂降りの中、湯安(ゆやす)に向かった。
誰もいないだろうと三階の壷(つぼ)に行くと津の国屋たちが帰っていた。湯から上がったばかりとみえて、汗を拭きながら団扇(うちわ)をあおいでいる。豊吉と麻吉も一緒で、洗い髪に長襦袢(ながじゅばん)姿でくつろいでいた。
「月麿先生、その面じゃ、まだ、夢吉と会えねえらしいな」と津の国屋が笑った。
「まったく、参ったぜ。とんだ酒盛りになっちまった。滝を眺めながらいい気で飲んでたら、突然の大雨だ。慌てて帰って来たら、こっちは今、降って来たばかりだって言うじゃアねえか。どうやら、雨雲と一緒に帰って来たようだ」
「お髪(ぐし)が台なしになっちゃったわ。これじゃア、お座敷に出られやしない」
豊吉と麻吉が髪の心配をしていると、
「いいじゃアねえか。おめえたちはお糸と違って、まだ桐屋に雇われちゃアいねえんだ。座敷に出る事もあるめえ。おめえたちの花代は俺がちゃんと払ってやるよ」と津の国屋が太っ腹な所を見せる。
「さすが、旦那、ほんと、いいとこで出会ったわ。もし、旦那に会わなけりゃ、わたいら、もう干乾(ひぼ)しになってたわ。草津に連れて来た御本人の夢吉ねえさんはどっかに消えちゃうし、桐屋にいる梅吉ねえさんはもう少し待っててって言うばかりで、ちっとも埒(らち)があかないんだから」
「なに、俺だって、いい連れができたと思ってんだ。気にするねえ。ところで、月麿、例の仕事の件はどうなってんだ」
「例の仕事?」
壷の入口にぼうっと立って話を聞いていた月麿は、きょとんとした顔をして津の国屋を見た。
「忘れてもらっちゃア困るな。ほれ、例のわ印(じるし)(春本)だよ。ちゃんといいのを描(か)いてくれよ」
「わかってますよ、旦那。夢吉が見つかりゃア、もう、さっさっさと片付けまさア」
月麿は津の国屋から逃げるように壷に入ると隅の方に行って腰を下ろした。
「ねえ、月麿さん、ほんとにわ印を描くの」
豊吉が興味深そうに聞くと、
「そうさ。歌麿師匠に負けねえ素晴らしい奴を描くそうだ」と津の国屋がニヤニヤしながら答えた。
「わあ、凄い。わたい、いつも思ってたんだけど、ああいう絵ってほんとに見て描くの」
豊吉だけでなく、津の国屋も麻吉も都八(とっぱち)も興味深そうな顔をして月麿を見ていた。
「そりゃア、見て描く時もあるさ。師匠くれえになると吉原の花魁(おいらん)たちも自分から進んで裸になってくれたが、売れねえ絵師(えし)はそうはいかねえ。安女郎(やすじょろう)かてめえの嚊(かかあ)を裸にして、後は師匠のわ印を手本にして描くのさ」
「へえ、やっぱり、歌麿師匠は花魁を見ながら描いてたんだ」
豊吉は納得顔で、津の国屋とうなづきあう。
「全部が全部、見たってわけじゃねえ。師匠ほどの腕がありゃア、何も見ねえたって描けるんだ」
「そうだろうねえ。あれだけ名人なんだもんね。女の体なんて隅から隅まで知ってんだね、きっと。ねえ、月麿先生、わたいを描いてくれない。わたいももう若くないしさ、今のうちに絵に描いてもらって残しときたいのよ。わたいと旦那が一緒のとこをさ、ねえ、旦那、いいでしょ」
「おう、そいつは面白え趣向(しゅこう)だ」と津の国屋は乗り気になる。
「歌麿師匠が描いたわ印に京伝(きょうでん)先生や唐来参和(とうらいさんな)先生が出てたのがあったっけ。なあ、月麿、その趣向で行こうぜ。俺と豊吉だけでなく、一九先生に麻吉、都八とおかよ、藤次とお糸、ついでにおめえと夢吉も描いたらいい。よし決まった。そいつで行こう」
「そいつは面白えや。おかよとのいい思い出にならア」と都八も手を叩いて喜んだ。
「旦那たちはいいけど、俺と夢吉はどうも‥‥‥」と月麿は煮え切らない。
「なに言ってんでえ。おめえが草津に来られたのは誰のお陰なんだ」
「そいつは勿論、旦那のお陰で」
「それなら話は決まった。さっそく、始めてくれ」
「わたいが一番よ」と豊吉がさっさとしごき帯を解いて、長襦袢を脱ぎ捨てた。
絵に描いてくれと言うだけあって、磨き抜かれた白い肌に形のいい乳房が現れた。
15.義仲伝説
一九は朝早くから、新三郎、中沢眺草(ちょうそう)、横山夕潮(せきちょう)と一緒に義仲伝説のある入山(いりやま)村へと向かっていた。
昨夜、桐屋で夕飯を食べた時、都八(とっぱち)がおかよと一緒に眺草を連れて来た。雨がやんだので、もし、明日も降らなければ、入山村を案内するという。一九もそのつもりだったので、喜んでお願いした。
一九は眺草と共に早めに桐屋から引き上げ、宿屋に帰った。眺草は甥が経営する中沢杢右衛門(もくえもん)の宿屋に住んでいるのではなく、町外れの静かな所に住んでいるという。一九が送って行こうとしたら、鷲(わし)の湯の少し先だからと言って断った。星空を見上げながら、
「明日は大丈夫じゃろう」と笑うと眺草は帰って行った。七十近いというのに元気な爺さんだった。
眺草と別れ、部屋に戻ると新三郎が一人で待っていた。一九が思っていた通り、新三郎は雲嶺庵(うんれいあん)を去った後、再び、お鈴に会いに行っていた。お鈴は恐れる事なく、かったい(ハンセン病患者)たちの面倒を見ていた。新三郎が何を言っても聞かなかった。新三郎は暗くなるまで、お鈴のやる事をじっと見守っていた。その後、お鈴を連れて美濃屋に行き、話し合った。
お鈴の話によると、お鈴がかったいたちの面倒を見に来るのは月に一度だけだという。本当は毎日、面倒を見てやりたいけど、お鈴も食べて行かなければならないので、それはできない。普段は赤岩で先生の手伝いをしているという。
新三郎は何度もやめろと言ったが、お鈴の意志は堅かった。出された料理にろくに手もつけず、うつむいている事が多かった。新三郎はお鈴が今夜、お世話になるという山口清太夫(せいだゆう)の宿屋まで送って、一九に相談するために帰りを待っていた。
そんな事を相談されても一九は困ったが、新三郎の話を黙って聞いていた。かったいの世話なんかやめさせたいと言いながらも、一生懸命になって、かったいの世話をしているお鈴の姿に感動したようだった。
「あんなお鈴を見なければよかった」と新三郎は苦しそうな顔をして言った。
「お鈴の事なんか忘れてたのに‥‥‥あいつ、前よりもずっと生き生きしていて、強え女になっていた」
一九は新三郎の顔を見ながら、うなづいた。
「きっと、お鈴ちゃんは自分の生き甲斐(げえ)を見つけたんだよ。女の医者なんて、あまり聞かねえが、お鈴ちゃんは立派なお医者さんだ。偉え医者でも、ああやって、かってえたちの中には入って行けねえ」
「ええ、凄え女です。あんな女だったとは思ってもいなかった」
新三郎は一九から目をそらすと、ぼんやりと行燈(あんどん)を見つめた。
一九は煙管に煙草を詰めながら、
「若旦那、お鈴ちゃんに会って、また好きになっちまったんじゃアねえのかい」と聞いた。
「そんな、そうじゃねえんです」
新三郎は向きになって否定した。
「ただ、若え娘があんな事をしてるのが見てられなくて」
「いいや、そうじゃねえだろう。あれが、お鈴ちゃんじゃなくて、知らねえ娘さんだったら、そんなに心配(しんぺえ)したりしねえだろう。自分の心に素直になる事だよ」
「自分の心に素直にですか‥‥‥」
新三郎はそうつぶやきながら帰って行った。
お鈴という娘は使えるかもしれないと読本(よみほん)の構想を練りながら一九は早寝をした。
朝、起きてみると月麿はいなかった。無事に夢吉と会えたのか、それとも、中善(なかぜん)で一睡もせずに待っているのかわからないが、あいつの面倒まで見ていられない。一九は夜明け前に起きて、さっさと旅支度をすませた。
隣りの部屋を覗くと都八がおかよと一緒に幸せそうに眠っている。津の国屋の姿はなかった。桐屋に泊まり込んだようだ。一九は麻吉の事をチラっと思った。昨夜、連れて帰りたかった。麻吉も一緒に来たいような顔をしていた。でも、眺草が一緒だったので、誘う事ができなかった。どこで寝ているのだろうかと少し心配しながら部屋を出た。
庭の五葉松(ごようまつ)の下で、すでに眺草は待っていた。横山夕潮の姿もあった。明るくなりかかっている空は曇っているが、雨は降っていない。
今日、一日、降らないでくれよと一九は空を見上げながら、二人のそばまで行った。
「おはようございます。わざわざ、どうもすみません」
「いやいや、わしも確認したい事がありましてな」と眺草が言うと、
「昨夜、眺草さんを訪ねたら、一九先生が入山に行くと聞きまして、わたしも是非にとついてまいりました」と夕潮は笑った。
「お二人が一緒なら心強い。噂ではかなりの山奥だとか」
「そうじゃな、落人(おちうど)が隠れていた所じゃから道は細くて険しいですよ。それでも、最近は向こうから草津に行商(ぎょうしょう)に来る者も多いから、道はちゃんとあります。道に迷いさえしなければ何ともありませんよ」
庭の奥の方から眠そうな顔をして新三郎がやって来た。
一晩中、お鈴の事を考えていて、あまり寝ていないようだった。
「若旦那、夜遊びが過ぎるようですな」と何も知らない眺草が笑った。
一行は義仲伝説の村へと向かった。
14.鷺白
雲嶺庵(うんれいあん)は泉水の通りを望む高台の上にあった。庵(いおり)と呼ぶにふさわしく、それ程、大きな建物ではなく、板葺きの屋根には、やはり石が乗せてあった。手入れの行き届いた庭を通って、縁側の方に行くと話し声が聞こえて来た。
丸髷(まるまげ)に結った若い女が縁側に腰掛け、鷺白(ろはく)と話をしている。
「まあ、湯安さんの若旦那じゃありませんか、いらっしゃいませ」と女は丁寧に頭を下げた。
「おや、十返舎(じっぺんしゃ)先生と月麿先生もご一緒か」と鷺白が振り向いて言った。
「まあ、十返舎先生でございましたか。どうぞ、ごゆっくりして行って下さいませ」
女は再び、丁寧に頭を下げ、
「それじゃア、その通りにいたします」と鷺白に言うと去って行った。
「頼むぞ」と鷺白は女の後ろ姿に言った。
女は振り返って、軽く笑った。
一九も月麿もその女の美しさにしばし、見とれていた。
「うちの嫁じゃ」と鷺白は笑った。
「先生方は江戸の俳人(はいじん)で二六庵(にろくあん)一茶(いっさ)先生をご存じですかな」
「はい、噂だけは聞いておりますが」と一九は言った。
鷺白はうなづいた。
「その一茶先生が今月、草津に来られるはずだったんじゃがな、どうやら、来月の末になるらしい。その事を今、知らせに来たんじゃよ。まあ、どうぞ、お上がり下さい。狭い隠居所で散らかっておりますが」
鷺白の書斎らしいその部屋には書物が積み重ねられ、仕事をしていたらしく、文机(ふづくえ)の上には書きかけの文が乗っていた。
「句集を出そうと思いまして、ちょっと整理をしていたとこなんですよ。まあ、どうぞ、楽にして下さい」
「先生、いよいよ、出しますか」と新三郎が文机を覗きながら言った。
「お前ももっとみしみてやれば、句集に入れてやるが、今の腕じゃアまだまだだぞ」
「はい、すみません。色々と忙しくって」
「何を言っておる。毎晩、桐屋に入り浸ってるようじゃな。遊びも結構じゃが、やるべき事はやらんとな」
「はい、わかってますよ」
鷺白のおかみさんらしき女がお茶をもって来た。鷺白よりも随分と年が若いようだった。
「先生にちょっと見てもらいたい物がありまして、お邪魔したんですけど」
新三郎がそう言って、夢吉の手紙の事を説明した。
「ほう。さすが、深川の芸者ですな。やる事が粋(いき)ですねえ」と鷺白は夢吉の手紙を見た。
「これは薬師さんにある龍山公の歌のようじゃが、少し、違うようじゃな」
「そうなんです。上(かみ)の句と下(しも)の句がバラバラで順番も違うんです」と月麿は自分が写した龍山の歌も見せた。
「うーむ。この中に謎が隠されているというのですな」
「はい。どうも、歌の事は難しくって、さっぱりわかりません」
「昔の連歌師(れんがし)は連歌の中に謎を入れて遊んでいたようじゃ。龍山公が詠んだように、句の頭の字を決めて、歌を詠むのも一種の遊びじゃな。ところで、先生方は龍山公とはどんなお方だったか、ご存じですかな」
「さあ、昔の偉いお坊さんだとは思いますが、詳しい事は」と一九は首を振る。
当然、月麿もわからないと首を振る。
「うむ。一応、入道(にゅうどう)して龍山と名乗っておりますが、お坊さんではなくてお公家(くげ)さんなのですよ。それもただのお公家さんではない。関白(かんぱく)にもなられた偉いお人なのです。時代的には織田信長や武田信玄、上杉謙信らの武将が活躍していた頃のお人なんです。信長とは特に親しい間柄だったらしく、信長が本能寺で殺された時、頭を丸めて龍山と号したんですよ。龍山公が草津に来られた天正十五年(一五八七年)はもう戦乱の世も終わり、太閤(たいこう)秀吉の天下になっておりました。龍山公も安心して京都からの長旅を楽しんだ事でしょう」
13.お鈴
新三郎の案内で、賽(さい)の河原の奥まで見て回った一九は茶屋で一休みしながら、満足そうに描き溜めた手帳の絵を眺めた。
熱い湯がブクブクと音を立てて噴き出している鬼の茶釜(ちゃがま)、河原にいくつも積んである石の五輪の塔、木の葉石、ゆるぎ石、鬼の角力場(すもうば)、さらに奥にある氷谷(こおりだに)、すべての景色が充分に読本に使えた。義仲の頃はもっと不気味で恐ろしい所だったに違いない。鬼の泉水と呼んでいた通り、鬼が出て来てもおかしくない恐ろしい所だった。
読本の構想を練りながら、一九はふと、草津の湯が癩病(らいびょう)(ハンセン病)に効くという事を思い出した。癩病患者たちのいる安宿を見ておくのも読本のネタになるかもしれないと思った。
「えっ、かってえの所に行くんですか」
一九の意見を聞くと新三郎は顔をこわばらせた。
「あんな汚えとこに行って、どうするつもりなんです」
「ネタ捜しさ。ネタはどんなとこに落ちてるかわからねえからな」
「どうしてもと言うのなら案内しますけど、覚悟して下さいよ。凄えとこですから」
二人は泉水(せんすい)通りを戻り、広小路から立町(たつまち)の坂を上った。地蔵の湯へ行く四つ辻の角に料理屋の美濃屋があり、その先が新田町(しんでんまち)だった。美濃屋の先には小さな宿屋が並んでいる。宿屋の二階から湯治客が何人か、通りを眺めているが、癩病を患(わずら)っているようには思えなかった。
「表通りにはいませんよ。裏の方に隠れてるんです」
草津の入り口にある木戸が見えて来た辺りで、新三郎は左の細い路地に入って行った。宿と宿の間を抜けると粗末な小屋が並んでいるのが見えた。中には筵掛(むしろが)けの掘っ建て小屋もある。表通りとはまるで別世界だった。
一九たちの姿を見ると顔や手足に汚い布(きれ)を巻き付けた乞食(こじき)たちが集まって来て、手を差し出して来た。その手が普通の乞食とは違っていた。指が曲がっているのはいい方で、ただれていたり、中には指が一本もない者もいる。目がつぶれている者、鼻がかけている者、片足のない者と想像を絶する姿の者たちが、うようよと現れた。
「一文(もん)やって下しゃれませ」と言いながら、乞食たちは一九たちの後について来た。
「どうします、まだ、奥の方を見ますか」と新三郎が懐手(ふところで)をしながら聞いた。
「まだ、奥があるのか」
「ええ、結構、あちこちから集まって来るんですよ。幸い、歩けねえような重病の者はいません。冬住みがあるので、奴らも一年中、ここにはいられませんからね、冬になるとどこかに行って、また、戻って来るんですよ」
「そうか。せっかくだから見て行こうか」
「そうですか」と新三郎はいやな顔をしながらも奥へと向かった。
狭い路地は雨水が溜まってグシャグシャだった。下駄を泥だらけにしながら奥へと行くと小屋の中から次から次へと異様な者たちが、
「おあまり下しゃれ、おあまり下しゃれ」と言いながら出て来た。
乞食たちは一九の着物を引っ張ったり、指のない手で、一九の腕をつかんだりしてくる。さすがに、一九も気持ち悪くなり、
「もういい。早く出よう」と新三郎を促した。
新三郎はうなづき、乞食たちを払うように先へと進んだが、ふと、足を止めて、小屋の中を覗き込んだ。
一九も小屋の中を見ると薄暗い中に若い娘の姿があった。
「可哀想になア、あの若さで業(ごう)の病(やめえ)に冒されるとは‥‥‥」
「ええ」と言いながら、新三郎は娘の姿をじっと見ていた。
娘がチラっと振り向いた。
その顔は以外にもまともだった。まともというより、泥沼の中に咲く一輪の蓮(はす)の花のように美しく思えた。
「おい、おめえ、もしかして、お鈴じゃアねえのか」と新三郎が娘に声を掛けた。
「えっ」と言いながら、娘は新三郎を見つめた。
「もしかしたら、湯安さんとこの若旦那さん?」
「ああ、俺だ。新三郎だ。おめえ、なんでこんなとこにいるんだ」
「それは‥‥‥それより、若旦那こそ、どうして、こんなとこに」
「いや、俺はちょっと、この先生を案内して‥‥‥それより、おめえ、かってえになっちまったのか」
お鈴は首を振った。
「おひゅひゅひゃんはわひらの観音ひゃまひゃ」と小屋の中にいた乞食が言った。
一九がその乞食を見ると、頭を丸めて、ぼろぼろの墨染(すみぞめ)を着た年老いた乞食坊主だった。
「とひどひ、わひらの面倒ほ見にひてふれるんひゃよ。勿体(ほってえ)ねえ事(ほと)ひゃ」
「面倒を見る?」と新三郎は小屋の中に目をこらした。
よく見ると、お鈴のそばに年寄りが寝ていて、お鈴は傷口を洗っていたようだった。
「おい、おめえ、一体(いってえ)、何をしてるんだ」
新三郎は下駄のまま小屋に上がるとお鈴の手を引っ張った。
「若旦那、やめて」と言うのも聞かず、新三郎はお鈴の手を引いて小屋から連れ出した。
「てめえら、どきやアがれ」
凄い剣幕(けんまく)で乞食たちを追い散らすと、さっさとお鈴を連れて、その一画から出て行った。
一九は慌てて、後を追った。