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粋な辰巳芸者を巡って、十返舎一九と喜多川月麿が草津温泉で巻き起こす馬鹿騒ぎをお楽しみ下さい。
2017 . 07
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    おたみ


    1.通油町

     

     

     梅雨が始まる前の五月(さつき)晴れ、澄んだ青空には威勢よく泳ぐ鯉のぼり、大小様々、色鮮やかに泳いでいる。その鯉のぼりに負けまいと、花の大江戸、本町(ほんちょう)通りを勢いよく走っている男がいる。手ぬぐいを肩にかけ、弁慶格子(べんけいごうし)の単衣(ひとえ)を尻っぱしょりして、息せききって走っている。

    「おう、どいた、どいた、邪魔だ、邪魔だ」

     年の頃は三十半ばのいなせな遊び人という身なりのこの男、今、売り出し中の浮世絵師、喜多川月麿(きたがわつきまる)という。美人絵を描かせたら天下一品といわれた歌麿(うたまる)の弟子である。

     師の歌麿は一昨年(おととし)の九月に亡くなってしまい、今はもういない。それでも、歌麿の人気が衰える事はなく、歌麿流の美人絵が巷(ちまた)に溢れていた。歌麿の弟子だった二代目歌麿、月麿、秀麿、藤麿、磯麿らは勿論の事、他流の勝川春扇(しゅんせん)、鳥居清峰(きよみね)、菊川英山(えいざん)までもが歌麿流の美人絵を描いて競い合っている。今のところ、この中で飛び抜けた者はいない。月麿は偉大なる師匠を越えようと頑張っていた。

     緑橋を渡って 通油町(とおりあぶらちょう) に入ると右に曲がり、月麿は廐新道(うまやしんみち)に入って行った。小さな店の建ち並ぶ通りをわき目も振らず、提燈(ちょうちん)屋の角を曲がって裏長屋へと入って行く。

     狭い中庭にも小さな鯉のぼりが暑い日差しの中、頼りなくぶら下がっている。井戸端では二人の女が洗い物の手を休めて、ベチャクチャ話し込んでいる。女たちは飛び込んで来た月麿に驚き、顔を上げた。

    「あら、月麿さんじゃない。脅かさないでよ」と言ったのは、若い方の女。髪をばい髷(まげ)に結い、深川鼠(ねずみ)の単衣に藍地に桜を散らした前垂れ姿はなかなか粋なおかみさん。

    「血相を変えて、一体、どうしたんです」

     月麿はおっとっとと立ち止まり、息を切らせながら目の前の長屋を指さし、

    「先生は、先生はいやすかい」とやっとの思いで吠えた。

    「ええ、いますよ。いつものように、ごろごろ寝そべったまま本を読んでます。本を読んでは、佐吉め、佐吉め、こん畜生、奴にゃア負けられねえって、昨日からずっと唸ってますよ」

     月麿はおかみさんの話を最後まで聞かず、先生の家(うち)に飛び込んで行く。暑いので入り口の戸は開けっ放し、六畳二間と二階付きの長屋。先生は奥の間にいた。寝そべってはいないで、文机(ふづくえ)に向かって仕事に熱中している。

     月麿はちびた下駄を脱ぎ散らかして、さっさと部屋に上がり込んだ。

    「先生、先生、大変(てえへん)なんだ。一大事(いちでえじ)だ。俺アもう、どうしたらいいんでえ」

     月麿が騒いでも、先生は知らんぷり、何かをぶつぶつ言いながら、文机に向かっている。

     この先生、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)という戯作者(げさくしゃ)で、弥次さん北さんでお馴染みの『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』の作者である。『膝栗毛』が思いの外、売れに売れ、今では引っ張り凧(だこ)の売れっ子作家。

    「先生、先生、大変なんだってばよお、のんきに仕事なんかしてる場合じゃねえ」

    「やかましい野郎だなア。おい、おめえ、そいつを読んでみたか」

     一九は振り返ると散らかっている十二冊の半紙本(はんしぼん)を顎(あご)で示した。波しぶきの描かれた表紙に『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』と書いてある。月麿は汗を拭きながら一冊を手に取って眺めた。

    「なんでえ、馬琴(ばきん)先生の読本(よみほん)じゃねえか。まだ、読んじゃアいやせんがね、絵の方はじっくりと見させてもらいやしたよ。さすが、北斎(ほくさい)先生だ。すげえ絵を描くねえ。大(てえ)したもんだ。で、こいつがどうかしたんですかい」

    「へっ、悔しいがな、面白え。去年、前編を売り出したんは知ってたが、大(てえ)した事アねえだろうと読みもしなかった。ところが、昨日、貸本屋がやって来て、面白えからって置いてきやがった。ええ、いめえましい。あいつがこれだけのもんを書くたアまったく、たまげたぜ。佐吉の野郎にゃア負けられねえんだ。俺も読本を書かなきゃならねえ」

    「あれ、『膝栗毛』はもうやめですかい」

    「ありゃアもう今年書き上げたら、それでおしめえだ」

    「そう簡単に終われますかね。村治(むらじ)の旦那が諦めねえでしょう。『続膝栗毛』を書けってえに決まってやすよ。今度ア、中山道膝栗毛、そして、甲州街道膝栗毛、奥州街道膝栗毛とネタはいくらでもありやすからね」

    「うるせえ!」と一九は本気で怒る。

    「膝栗毛なんかどうでもいいんだ。俺はな、読本を書くって決めたんだ」

    「へいへい、わかりやした」と月麿はうなづき、

    「で、一体、どんなのを書くんでやすか」と機嫌を取るように聞いてみる。

    「そいつを今、思案中よ。せっかく、うめえ趣向(しゅこう)が浮かんだと思ったら、おめえが騒ぎやがるから、ころっと忘れちまったじゃねえか。くそったれめが」

    「おっと、こっちこそ、忘れるとこだった」

     月麿は馬琴の読本を放り投げると膝を進めて、

    「先生、一大事なんだ」と真剣な顔をしてみせる。

    「うるせえ。何があったってえんだ。どうせ、また、くだらねえ茶番(ちゃばん)(素人の道化芝居)でも考えて、誰かをだまくらかそうってえんだろう。俺ア今、そんな暇人じゃアねえんだよ」

     一九は団扇(うちわ)を扇ぎながら、そっぽを向く。

    「そんなんじゃアねえんだ、先生」

     月麿は一九から団扇を奪い取ると、

    「夢吉が草津に行っちまったんだよう」と情けない声で言う。

    「夢吉だと‥‥‥」

     一九は首を傾げて考える。

    「聞いた事ある名前(なめえ)だな。ええと、どこのどいつだったっけ」

    「どこのどいつはねえでしょうが。辰巳(たつみ)の仲町(なかちょう)で板頭(いたがしら)(売れっ子)だった、ほれ、あの意気な芸者ですよ」

    「おうおう、おめえが振られた例の仇(あだ)っぺえ芸者か。ありゃア確かにいい女だった。桜屋の小万(『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』に出てくる芸者)か鶴屋の夢吉かって騒がれたっけ。可哀想になア、かさっかき(梅毒)にでもなったのか」

     一九はそんな事はどうでもいいという顔で、煙管(きせる)に煙草を詰め始める。

    「よして下せえよ。そうじゃねえんで」

    「それじゃア、旦那と一緒に遊山旅(ゆさん)にでも出掛けたか。どっちにしろ、おめえにゃア関わりあるめえ」

    「それが関わりが出て来たんだ」

    「何だと」

     月麿は急に嬉しそうな顔をして、

    「夢吉は旦那と別れたらしい」とニヤニヤ笑う。

    「何を都合のいい事を言ってやがんでえ」と一九は相手にしない。

    「いや、先生、ほんとなんだ。俺はちゃんと調べて来たんだ」

    「へっ、暇な野郎だぜ。師匠が亡くなって、今が売り出す大事(でえじ)な時だってえのに、女のけつを追っかけ回してるたア情けねえ」

    「夢吉は俺の命なんだ。旦那と別れて困ってんのを黙って見ちゃアいられねえ」

    「なにも困ってるとは決まっちゃアいめえ。新しい情夫(いろ)ができたんかもしれねえ」

    「夢吉にかぎって、そんな女じゃねえ」

    「ふん、勝手にしやがれ。おめえののろけなんか聞いてる暇なんぞねえよ」

     一九はポンと煙管を灰吹(はいぶき)でたたいた。

    「そうじゃねえんだ。先生、俺たちも草津に行こうってえんだ」

    「なんだと? 馬鹿言ってんじゃねえ。なんで俺が草津くんだりまで行かなけりゃならねんだ」

    「そいつはほれ、草津に行って『草津道中膝栗毛』を書きゃアいい。ここんとこ、草津の湯は大層(てえそう)な人気だ。草津の湯の滝に打たれるとどんな病(やめえ)もたちまち治るってえんで、誰もが競って出掛けるそうだ」

    「おいおい、そいつは滝違えだぜ。草津じゃなくって王子の滝だろう」

    「王子の滝もそうなんだが、草津の滝も有名なんだ。なにしろ、湯煙りを上げたお湯が川のように流れてる凄えとこなんだ。草津の事を書きゃア、そりゃアもう売れる事、請け合いだ」

    「おめえに請け合ってもらっても仕方ねえや」

    「いや、先生、村治の旦那だって乗って来るに違えねえって」

    「膝栗毛はやめるって言ってるだろうが、うるせえ野郎だ。行きたかったら、てめえ一人で追いかけてきゃアいいだろう」

    「そんな冷てえ事を言わねえで下せえよ。十日ばかり前(めえ)の事だ、難波町(なにわちょう)に火事があったろう。その火事で夢吉の旦那んちも丸焼けになっちまったらしい」

    「おう、そう言やア思い出したぜ。その旦那ってえのは酒屋だったっけなア」

    「へい。相模(さがみ)屋ってえ酒屋で、一時は威勢よかったんだが、一昨年の芝居町(しべえちょう)の火事で焼け出されちまって、去年の永代橋(ええたいばし)が落ちた時にゃア、先代(せんでえ)の旦那が亡くなっちまった。それからは、どうもいけねえ。とうとう身代(しんでえ)が傾いて来たようだ。今度の火事じゃアもう立ち直れねえだろうとの評判だ。夢吉を囲っておく事もできなくなっちまって別れたってえ寸法だぜ」

    「そうか、あん時、相模屋も焼け出されたのか」と一九は神妙な顔をしてうなづく。

    「へい、そうなんで。あの年は三月と十二月にでっけえ火事がありやがった。三月の大火ん時ゃア、この辺りまで焼けて、先生んちも俺んとこも焼けちまったけど、芝居町は大丈夫(でえじょぶ)だったんだ。ところが、十二月の火事で中村座も市村座も燃えちまった。そん時、相模屋も燃えちまったんでさア。あん時ゃア、なんとか立ち直る事ができたが、今度はもういけねえらしい」

    「まったく、ひでえ火事だったぜ。読本(よみほん)を書くために集めたネタがみんな焼けちまった。くそったれが」

    「そうだ、先生」と月麿が何かを思い出したように手をたたく。

    「読本と言やア以前、師匠と一緒に草津に行った時、草津に木曽義仲(きそよしなか)の伝説があるって聞きましたぜ。そいつは読本に使えるんじゃアねえですか」

    「なに、木曽義仲の伝説か‥‥‥義仲と言やア『ひらがな盛衰記(せいすいき)』だな。うむ、使えねえ事アねえが、そいつは本当なのか」

     一九が興味深そうな顔をして来たので、うまく行ったと月麿はほくそ笑む。

    「ほんとでさア。詳しい事は知らねえが本当のこってす。そん時は京伝(きょうでん)先生も一緒だったんで、京伝先生なら詳しく知ってるはずでさア」

    「なに、京伝先生も行ったのか‥‥‥」

    「へい。蔦重(つたじゅう)の旦那も一緒で」

    「蔦重の旦那も? おい、そいつはいつの事でえ」

    「もう、十年余りも前(めえ)の事でさア。確か、旦那が写楽(しゃらく)の役者絵を売り出してた頃じゃねえかな」

    「その頃、俺は蔦重に居候(いそうろう)してたはずだが‥‥‥覚えがねえなア」

    「あん時ゃア十日ばかり草津で遊んで、それから、旦那と京伝先生は江戸に帰(けえ)ったけど、師匠と俺は栃木の釜屋(かまや)の旦那んとこに行ったんだ。あの頃、先生は黄表紙(きびょうし)を売り出したばかりで、朝から晩まで、文机に向かってましたよ」

    「おうおう、そんな事があったっけなア。あん時、おめえも行ったのか」

    「荷物持ちでさア」

    「ふーん。そうか、草津に木曽義仲の伝説があるのか‥‥‥面白えかもしれねえな。馬琴が鎮西(ちんぜえ)八郎(源為朝(みなもとのためとも))なら、こっちは朝日将軍(義仲)と行くか。よし、京伝先生に聞いてみよう。もし、そいつが本物なら行ってみる値打ちはありそうだな」

    「そうこなくっちゃいけねえや」と月麿は嬉しそうに膝を打つ。

     一九は団扇を手に取ると扇ぎながら、

    「木曽義仲か‥‥‥」と何度も呟き、独りでうなづく。それから、ニヤニヤしている月麿の顔を見つめ、

    「それで、おめえ、夢吉を草津まで追いかけてって、どうするつもりなんだ」

    「どうするって、夢吉が辛え目に会ってたら助けてやろうと」

    「ふん、何が助けるだ。ただ、とぼしてえだけだろうが」

    「そんなんじゃねえ。俺ア夢吉と夫婦(めおと)になるつもりだったんだ」

    「おきゃアがれ。あん時のおめえにそんな甲斐性(かいしょ)があったか」

    「確かに、あん時ゃアなかったけど、今なら何とかなる」

    「ふん、どうだか。ところで、夢吉は何で草津に行ったんでえ」

    「それがよくわからねえんですけどね、何でも、草津に昔の芸者仲間がいるらしくて、旦那と別れた夢吉は一夏、草津で芸者稼業に戻ろうと思ったんじゃアねえかと」

    「ほう。深川に戻らねえで草津で稼ごうってえのか」

    「へい、草津はえれえ賑わいで、稼ぎもいいらしい」

    「一人で行ったのか」

    「いえ、まさか。草津にいる芸者が助っ人を呼んだらしくて、仲町の芸者が二人に太鼓(たいこ)持ち(男芸者)も一人、一緒に行ったそうです」

    「それに箱持ち(三味線持ち)も言ったんだろう」

    「へい、多分」

    「稼ぎに行ったんなら邪魔しねえ方がいいんじゃねえのか」

    「そんな事、言わねえで下せえよ。旦那と別れたんなら、一目会いてえってえのが人情ってもんでやしょう」

    「おいおい、おめえ、まだ、本気で惚れてんのか」

    「へい」

    「まったく、しょうがねえ野郎だ」

    「また、二人で悪い冗談の相談してるんでしょ」と入って来たのは井戸端で洗い物をしていた、ばい髷の粋なおかみさん。実は一九の恋女房で、お民(たみ)という。

     四十歳の一九のもとに十九歳のお民が嫁いで来たのは四年前。勿論、一九は初婚ではない。一度目は大坂で材木屋の婿(むこ)になったが、遊びが高じて離縁となり、江戸に戻り、蔦重を出た後、町家に婿入りするが、やはり、遊びが過ぎて離縁になっている。なかなかの男前なので盛り場でも随分ともてたし、素人の女たちにも騒がれた。そんな一九も四十を過ぎ、ようやく、遊び癖も治まり、若いお民を迎えたのだった。年は親子程も離れているが、誰もがうらやむ程、仲むつまじい夫婦だった。

    「前と違って、長屋住まいなんだから、あまり大騒ぎしないで下さいよ」とお民はちらっと一九を睨(にら)む。

    「そんなんじゃねえんだ」と一九は手を振る。

    「月麿の奴が惚れた女を追いかけるって言うんでな。ちょっくら、一肌脱いでやろうと思ってたんだ」

    「あら、おめでたいじゃないの」とお民はニコッと笑う。

    「月麿さん、うまくやって下さいね」

     月麿はお民の笑顔を見る度に、どうして、こんな可愛い女が一九と一緒になったのか、不思議に思う。そして、自分も惚れた女と幸せな夫婦になる事を夢に見る。

    「はい、そりゃアもう、なんとしてでも」

    「絵も売れて来たんだし、いつまでも遊んでないで、そろそろ身を固めた方がいいわ。ねえ、どんな人なの」

    「夢吉ねえさんだとさ」と一九がニヤニヤしながら月麿を見て言う。

    「えっ、もしかして、芸者さんなの」

    「そういう事だ。しかも、とびきりの別嬪(べっぴん)で、つい最近、旦那と別れたそうだ」

    「あら、そう。芸者さんもいいけど、月麿さんにはやっぱり、堅気(かたぎ)の人がいいんじゃないの。おみやさんなんてよかったのに」

     月麿は渋い顔して首を思い切り振る。

    「おみやの事はもう言わねえで下せえ。あいつの事アもう、すっかり忘れやした。でも、夢吉の事はどうしても忘れられねえんですよ」

    「お民、こいつはな、夢吉が深川にいた頃、毎日(まいんち)、通い詰めてたんだぜ。その頃、描いた奴の絵を見てみろ。どいつもこいつもみんな、夢吉の顔だ。それ程、惚れてたのに揚げ句の果てには振られてよお、もう諦めたかと思ったら、また、この騒ぎだ。どうせ、また、振られるに決まってらア」

    「振られたっていいんだ。今度、振られたら、俺もきっぱりと諦める。ただ、もう一度、夢吉を描きてえんだ。今の俺は自分の絵がわからなくなっちまったんだ。師匠が亡くなって、二代目(にでえめ)を初めとして誰もが師匠の真似をしてやがる。版元(はんもと)も師匠の真似をして描きゃア売り出してくれる。俺も師匠の真似をして絵を描いた。でもよお、違うんだ。師匠はいつも言ってたんだ。俺の真似なんかするんじゃねえ。てめえの女を描けってな。歌麿じゃなくて月麿の女を描けって言ってたんだ。でも、俺にはわからなくなっちまった。もう一度、夢吉に会って、夢吉を描いたら、自分の絵ってえのがわかるかもしれねえ」

    「そうか‥‥‥歌麿師匠がそんな事を言ったのか。確かに、今時の美人絵はどれもこれも師匠の物真似だ。歌麿師匠を越えるのは難しいが、弟子として、おめえがやらなきゃならねえぜ」

    「師匠を越えるなんて、そんな大それた事まで考えちゃアいねえ。ただ、自分の絵を描きてえんだ」

    「よし、おめえがそれ程まで言うなら、一肌脱がなくっちゃアならねえな」

    「先生、一緒に草津に行ってくれるかい」

    「義仲の伝説が本物なら行ってもいいぜ」

    「ちょっと、おまえさん、草津に行くんですか。草津って、あの湯治場(とうじば)の草津?」

     お民は何が何だかわからないという顔して、一九と月麿を見比べる。

    「上州(群馬県)の草津よ。夢吉が草津に行ったんだそうだ」

    「ちょっと、ちょっと待って下さいよ。草津に行くったって、そんな、先立つ物なんかありゃしませんよ」

    「なに、銭がねえのか」

    「ありませんよ。この前の火事で家財道具をすっかりなくして、ようやく立ち直ったばかりじゃないですか。そんな余計なお銭(あし)なんて一文(もん)もありません」

    「おい、銭がなきゃア話にならねえ。夢吉が帰って来るまで我慢しろ」

    「そんな‥‥‥そうだ、先生、村治の旦那に頼みゃアいい」

    「駄目です」とお民は月麿に首を振ってから、一九を睨む。

    「旦那には色々とお世話になったんだから。これ以上、迷惑かけられません」

    「いや、そうじゃねえんだ、おかみさん。俺が夢吉の絵を描いて、先生が読本を描く約束をして、前金をいただきゃアいいのさ」

    「そんなにうまく行くかしら」

    「うまく行くさ。先生、さっそく、旦那んとこに掛け合いに行きやしょう」

    「おう。ついでに、京伝先生んとこにも挨拶に行って来るか」

     月麿は一九を引っ張るようにして出掛けて行った。

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