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粋な辰巳芸者を巡って、十返舎一九と喜多川月麿が草津温泉で巻き起こす馬鹿騒ぎをお楽しみ下さい。
2017 . 07
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    市川団十郎の助六


    3.葺屋町

     

     

     端午(たんご)の節句は菖蒲(しょうぶ)の節句ともいわれ、菖蒲と蓬(よもぎ)を軒に飾って邪気を払い、粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べ、菖蒲酒を飲んで、季節の変わり目を祝った。

     酒に目がない一九は昼間っから酒を飲んで、のんびりしたかったのだが、お民を連れて、朝早くから芝居見物に出掛けて行った。草津に行くためには第一に、お民の機嫌を取らなければならない。一緒に連れて行ってやりたいがそうもいかない。芝居見物で我慢してもらうしかなかった。

     堺町(さかいちょう)の中村座も葺屋町(ふきやちょう)の市村座も今日が初日。中村座では『義経(よしつね)千本桜』、市村座では『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』、一九としては中村座を見たかった。三月に大坂より下って来て、今、大評判の三代目中村歌右衛門が見たかった。それと、『義経千本桜』の世界は草津の伝説、木曽義仲と同じ時代、何か参考になるかもしれないと思っていた。でも、お民は大の尾上(おのえ)栄三郎(後の三代目尾上菊五郎)の贔屓(ひいき)だった。栄三郎が出ているのは市村座、お民は迷うことなく市村座を選び、一九は歌右衛門を諦めた。

     『忠臣蔵』を見て、馴染みの芝居茶屋で夕飯を食べ、銘酒滝水(たきすい)を飲み、御機嫌で帰って来たのは五つ半(午後九時)を過ぎていた。

    「栄三郎の若狭助(わかさのすけ)と定九郎(さだくろう)はよかったねえ。でも、塩冶判官(えんやはんがん)の源之助(後の四代目沢村宗十郎)もよかったねえ」

     お民はうっとりとした顔付きで、芝居茶屋で買って来た栄三郎と源之助の団扇(うちわ)を見比べる。

    「なに言ってやんでえ。今度は源之助にくら替えか」

    「そうじゃないけどさ、二人共、ほんとによかったのよ」

    「ふん、二人はまだまだ若え。なんと言っても高麗屋(こうらいや)(五代目松本幸四郎)よ。見たかい、あの憎々しい師直(もろなお)を。ありゃア、おめえ、大(てえ)した役者だぜ」

    「いいえ、栄三郎こそ、今に立派な千両役者になるわよ」

    「それより、成田屋(なりたや)(七代目市川団十郎)も大したもんだぜ。まだ十八の若造だが、どうしてどうして、五代(でえ)目に負けねえ大物になるに違えねえ」

    「そうねえ、成田屋もよかったねえ」

     久し振りに芝居を見て、お民は嬉しくてしょうがないようだ。まずはうまく行ったなと一九も満足だった。

     芝居の話を肴(さかな)に一杯やっていると、奥の長屋に住んでいる村田屋の番頭、徳次郎が顔を出した。

    「お揃いで、今日はお出掛けでしたか」

    「おう、徳さん。まあ、上がりねえ。ちょっと一杯(ぺえ)付き合わねえか」

    「はい、どうも。ちょっと、うちの旦那から言伝(ことづて)があったもんで」

    「ほう、何だろう」と一九はお民の顔を見る。

     お民は赤い顔して首を振った。

    「わたしも詳しい事はわからないんですけどね、いい知らせがあるから、明日、ちょっと、顔を出してくれとの事です」

    「そうか、合点(がってん)承知之助だ。わざわざ、すまなかったな」

    「徳さん、さあ、お上がりなさいな」とお民も機嫌よく迎える。

    「今日はお芝居を見に行って、今、帰って来たばかりなんですよ」

    「成程、そうでしたか。そういえば今日は初日でしたね。で、例の歌右衛門を?」

    「いやいや、栄三郎さ。俺はやっこさんを見たかったんだが、こいつは栄三郎贔屓だ。わき目も振らずに市村座にまっしぐらさ。まあ、高麗屋に坂三津(ばんみつ)(三代目坂東三津五郎)、大和屋(やまとや)の太夫(たゆう)(五代目岩井半四郎)も出てたし、紀の国屋(沢村源之助)に成田屋もいたからな。結構、面黒(おもくろ)かったよ」

    「そうでしたか。そいつはようございました」

     徳次郎は上がり込み、一九とお民の芝居話を聞かされた。半時(はんとき)(一時間)余りいて、いい機嫌になり、愚痴をこぼし始めた頃、うまい具合に、おかみさんが迎えに来て帰って行った。

    「あいつも飲むと癖が悪(わり)いな」と一九は舌を鳴らす。

    「普段、おとなしいから、飲むと気が大きくなるんでしょうねえ」

    「俺を相手に愚痴るくれえならかまわねえが、所かまわず、あれをやってたら、しまいにゃアしくじるぜ」

    「大丈夫よ。おまえさんみたいに、あちこち遊び歩かないから」

    「へっ、俺だって近頃はおとなしいもんだ」

    「さあ、どうだか」とお民は一九を横目で睨む。

    「月麿さんとまた、何やら企んでるんでしょ。あまり、ふざけた事をしないで下さいよ」

    「なに、心配するねえ」

     蚊帳(かや)の中に入って、たっぷりとお民を可愛がった後、一九は村田屋のいい話というのを考えた。草津行きの路銀の工面ができたに違いない。噂に聞く草津の湯を想像しながら、木曽義仲の伝説を使って傑作が書けるような気がすると思った。

     次の日、浮き浮きしながら村田屋を訪ねて行くと、主人の治郎兵衛は機嫌よく、嬉しそうな顔で迎えた。一九は浮かれている自分を戒(いまし)めた。治郎兵衛がこういう顔をしている時は気をつけなければならない。何かを企んでいるに違いないと、警戒しながら治郎兵衛の話を聞いた。

    「先生、実は昨日、津の国屋の旦那が見えましてな」と治郎兵衛は口を切った。

    「えっ、津の国屋?」

     意外な話だった。一昨日(おととい)、津の国屋の事を京伝と話したが、その話がもう、ここまで来たのかと不思議だった。

    「先生の合巻(ごうかん)を買って行きましたよ」と治郎兵衛はすっとぼけた。

    「それだけですか」と一九は治郎兵衛の目の奥をのぞき込む。

    「いやいや、どこでどう聞いたものか、先生と月麿が草津に行くというのを知ってましてな、できれば、一緒に行きたいと言ってましたよ」

    「そいつア本当ですかい」

     一九は信じられないという顔をして身を乗り出した。

    「本当です。ただし、条件があるんですよ」

    「何です。もしや、夢吉の事では」

    「いえいえ。夢吉の事など一言も言ってませんよ。それ程、難しいもんじゃございません。旦那が言うには草津の湯を舞台に‥‥‥」

    「草津を舞台(ぶてえ)に滑稽本を書けと?」

     治郎兵衛は首を振った。

    「それじゃア、読本(よみほん)?」

    「いえ、そんな堅いもんじゃありません」

    「合巻ですか」

    「いいえ。実はわ印(じるし)(春本(しゅんぽん))を書けと」

    「なんと、わ印ですか‥‥‥確かに、あの旦那の考(かんげ)えそうな事だ」

    「四年前、『太閤記(たいこうき)』がらみで、歌麿師匠を初めとして、勝川春英(しゅんえい)、春亭、歌川豊国(とよくに)、そして、先生と月麿も捕まって、手鎖(てぐさり)五十日の刑に処せられた。それから、みんな、お上(かみ)を恐れて、わ印を描かなくなっちまった。ここらで面白えのを一つ描いてくれとの事ですよ」

    「わ印か‥‥‥」と腕組みをして考えていた一九は、治郎兵衛の顔を見て、

    「読む方じゃなくて、絵本の方ですね」と聞いた。

    「うむ、そうだ」と治郎兵衛はうなづく。

    「津の国屋の旦那は折帖(おりぢょう)仕立(じた)てがいいと言っていた」

    「折帖ってえと、絵は十二枚(めえ)ですね」

    「まあ、そうだな。草津を舞台に描いてほしいそうだ」

    「描けといやア描くけど、十二枚ってえのは、ちときついなア」

    「なにも先生が絵まで描かなくてもいい。月麿に描かせりゃアいいんだ」

    「成程、そりゃアいい。そいつは妙案だ。それなら何とかなるだろう。奴も艶本(えほん)を出してえって言ってたからな、喜ぶに違えねえ。ところで、その艶本、旦那が出すんですかい」

    「勿論ですよ。大っぴらには売れんがな、津の国屋の旦那がすべてを任せろって言ってましたよ」

    「さすが、やる事が大きいねえ」

    「という訳だ。どうする。一緒に行きますか」

    「勿論でさア。旦那、お願えしますよ」

    「そうと決まれば、さっそく、返事をやりましょう。先生は月麿に話して旅の支度を始めて下さい。津の国屋の旦那はもう、いつでも出掛けられるそうですから」

    「そいつは大変(てえへん)だ。さっそく、支度に取り掛かりましょう」

     一九は村田屋を出ると飛び上がって喜び、月麿に知らせるために馬喰町(ばくろちょう)へと向かった。

     ♪やなぎやなぎで世を面白く
              ふけて暮らすは命の薬
           梅にしたがい 桜になびく
                  その日その日の風次第~

     中村歌右衛門が流行らせた上方(かみがた)唄を一九は知らずに口づさんでいた。






    「でも、おまえさん、津の国屋さんのお供をすると言ったって、一文も持たずには行けないでしょうに」

     いそいそと旅支度をしている一九をお民が心配顔で見守っている。

    「なアに、村治の旦那が餞別(せんべつ)ぐれえくれらアな。心配(しんぺえ)するねえ」

    「それならいいけど、何か、話がうますぎるような気がするわ」

    「そんな事アねえ。考え過ぎだ。京伝先生がうまく運んでくれたに違えねえんだ」

    「でも、もうすぐ梅雨に入るのよ。どうせなら、梅雨が明けてからにすればいいのに」

     確かに空模様がおかしかった。昨日まで五月晴れのいい天気が続いたのに、今日は今にも雨が降りそうな雲行きで、妙に蒸し暑い。

    「そんなのんびりしてられねえよ。早えとこ、ネタを揃えて読本を書かなくちゃアならねえ。来年の正月に売り出せるようにな」

    「だって、『膝栗毛』もまだ書き上がってないんでしょ。大丈夫なの」

    「心配するなって。『膝栗毛』なんてちょろいもんよ。旅から帰(けえ)って来たら、さっさと書き上げちまうよ」

    「で、いつ出掛けるの」

    「津の国屋の旦那はもう、旅支度が出来てるってえからな。明日じゃねえか」

    「いつ行くかも知らないの。のんきねえ。置いてかれちゃうわよ」

    「そんな事アねえよ。向こうが一緒に行きてえって言って来たんだ。そのうち、向こうから何とか言ってくらア」

    「まったく、気楽なんだから。ねえ、合羽(かっぱ)は持ったの」

    「ああ、持った持った。着替(きげ)えも火打道具も鼻紙も薬もちゃんと入れたし、往来切手(おうれえきって)も用意してある」

    「関所の手形はいいの」

    「ああ。箱根を越えるわけじゃねえからな。切手だけで充分さ」

    「それで、いつ帰って来るの」

    「そいつは旦那次第(しでえ)だが、旦那としても、そうのんびりはしてられめえ。行きに五日とみて、向こうに五日くれえだろう。帰りが五日で、まあ、半月ってえとこだな。おめえも半月の間、淋しいだろうが、ちっと我慢してくれ。本が書き上がったら、今度こそ、江の島に連れてってやるからな」

    「当てにしないで待ってるわ」

    「先生、支度できたかい」と月麿の声がした。

     振り返ると旅支度に身を固めた月麿がニヤニヤしながら立っている。

    「おう、いつでも出掛けられるぜ」

    「これから、山城河岸に行くんですかい」

    「どうするか。向こうからは何も言って来ねえが、とにかく、村田屋に行ってみるか」

    「二人とも何を言ってんです。まさか、これから旅立つつもりじゃないんでしょうね」

    「そいつがわからねえから、村治の旦那に聞いてみようってえんだ」

    「だって、旅立ちは普通、朝でしょうに」

    「まあ、普通はそうだろうな」

    「ねえ、月麿さん、旅支度するのはいいけど、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に笠をかぶって、道中差(ざし)まで差すなんて、ちょっと早すぎるんじゃないの」

    「いや、先生が早く支度して来いってえもんで」

    「まったく、二人ともいい加減なんだから」

     あきれ顔のお民に送られ、旅支度を解いた月麿を連れて一九は村田屋へ向かった。

     村田屋に行くと治郎兵衛が待っていた。

    「たった今、津の国屋さんから使いが見えて、今晩、深川で送別の宴(えん)を張るから、是非、出てくれとの事です」

    「ほう、深川で送別の宴たア、お大尽(だいじん)様はやる事が違うねえ」

     月麿は顔を崩して膝を打つ。

    「深川というと、やはり、一流どこの梅本、山本、尾花屋ですか」

    「尾花屋だそうだ」

    「いいねえ。尾花屋で辰巳(たつみ)芸者と遊んでから、旅立ちとは嬉しいじゃアねえか。言う事なしのこんこんちきだ」

    「明日の朝、芸者衆に見送られて、鹿島立ちと洒落(しゃれ)るわけですな」と一九も浮かれている。

    「おっと、いけねえ。尾花屋に行くとなるとこんな格好(なり)で行くわけにゃアいかねえ。ちょっと着替(きげ)えて来るぜ」

     飛び出して行こうとする月麿を、

    「そう、慌てるな」と治郎兵衛が引き留める。

    「宴会は日が暮れてからだ。まだ、間がある。ところで、月麿、例の話だが大丈夫なのか」

    「例の話?」と月麿はきょとんとしている。一九に肘を突かれて思い出し、

    「ああ、艶本(えほん)の事ですか。それなら任せといて下せえ」と自信たっぷりに胸を張る。

    「師匠のもとで、たっぷり修行しやしたから大丈夫(でえじょぶ)ですよ」

    「なに、そいつは本当か」

    「本当でさア。いくら師匠が名人でも、あれだけの仕事を一人じゃアさばけねえ。師匠は気に入った仕事は精出すけど、気に入らねえ仕事は弟子に任せてたんですよ。でも、師匠は自分の名にケチがつけられるのを嫌って、余程、師匠にそっくり描かねえと許しが出ねえんだ。師匠から菊麿(きくまる)って名を貰って、美人絵を売り出すまで、俺アずっと、師匠の美人絵を描いてたんですよ。歌麿って名が入(へえ)ってるけど、実は俺が描いたのも何枚(めえ)もあるんでさア。自分の美人絵を出すようになってからは、師匠の美人絵を代筆する事はなくなったけど、今度は艶本の方を描かされたんです。俺もそっちの方は好きですからねえ、結構、描きましたよ。そんな時、俺は夢吉と出会って、師匠の代筆をやってる自分が情けなくなっちまってね、仕事もせずに夢吉のもとに通い続けて、揚げ句にゃア師匠に突き出されちまった。もう、おめえなんか弟子じゃねえって言われて、菊麿から喜久麿に字を変えたってえ訳です。それでも師匠は俺の事を見捨てねえで、何かとよくしてくれましたよ。あの頃、仕事があったんは師匠が版元に頼んでくれたんだって後になってわかった。そしてまた、弟子になる事ができて、今度は月麿って名に変えたんだ」

    「どうして、菊から月に変えたんだ」

    「菊の花は秋だけだ。月なら毎日(まいんち)見られるからでさア」

    「なんだ、それだけの意味か」と治郎兵衛は拍子抜けする。

    「いや、本当は夢吉の本名が卯月(うづき)ってえんだ。四月に生まれたから、そう名付けられたんだそうだ。本人はあまり好きじゃねえようだが、俺はいい名だと思った」

    「卯月か。うむ、なかなか風流な名だ。でも、あの夢吉には似合わねえなア」

    「そうかなア。俺は卯月麿ってつけようと思ったんだけど、何か変なんで、月麿にしたんだ」

    「卯月麿か‥‥‥いっそ、疼(うづ)きマラ(男根)ってやればよかったろう」

    「そいつはいいや」と一九が煙草を飲みながら大笑いする。

    「旦那、からかわねえで下せえよ」

    「しかし、おめえ、振られた女の名をてめえの名にするとは呆れた野郎だな」

    「いや、旦那、そん時はまだ、振られちゃアいなかったんでさア。俺が名を変えてからすぐに夢吉は相模屋(さがみや)に身請けされちまったってえわけよ。何とかやめさせようと思ったんだが、そん時の俺は手鎖五十日で出歩く事もできやしねえ。どうしょうもなかったんでえ」

    「そうか、あの騒ぎの最中だったか、夢吉が身請けされたのは。そいつは可哀想だったな」

    「そうさ。俺は夢吉とちゃんと別れる暇もなかったんだ」

    「成程な。それで、ちゃんと別れを告げに草津に行くわけだな」

    「違えねえ」と一九は笑い転げる。

    「旦那、馬鹿言わねえで下せえよ」

    「悪かったな。ところで、おまえの話によると、歌麿師匠の弟子たちはみんな、師匠の代筆をしてたのか」

    「ええ、師匠の許しの出た弟子はやってましたよ。俺が美人絵をやらなくなってから、美人絵を描いてたのが鉄つぁんですよ。恋川春町(こいかわはるまち)の二代目(にでえめ)を継いだ人です。晩年の師匠の美人絵はほとんど、鉄つぁんが描いたもんです。師匠が突然、亡くなっちまったもんだから、注文は殺到してるし、鉄つぁんは寝ずに描きまくったようですよ。師匠のおかみさんも手伝ってました。おかみさんの許しもあって、そのまま、二代目歌麿を名乗ったってえわけです。今ではおかみさんと一緒になっちまって‥‥‥二代目を名乗るくれえは仕方ねえけど、おかみさんを寝取るなんて絶対(ぜってえ)に許せねえ」

    「ふーん、そういう事情があったわけか。他の弟子たちはどうなんだ」

    「藤麿(ふじまる)は肉筆(にくひつ)の方をやってましたよ。肉筆は金になるから師匠も喜んで引き受けたが、やっぱり、気が乗らねえと描かねえ。それで、藤麿がやってたんです。奴はずっと肉筆をやってたから腕はありますよ。秀麿(ひでまる)の奴が一番、損をしたな。師匠の仕事を直接、手伝ってたけど、着物の模様とか背景とかやってたから、美人絵は描けねえだろう。景色なんか描かせたら大(てえ)した腕を持ってんだが勿体(もってえ)ねえ事だ。磯麿(いそまる)も二代目と一緒に美人絵の代筆をしてました。腕は二代目よりも上でしょう。おとなしい奴だから二代目の言いなりになってたけど、二代目がおかみさんと一緒になったのには、あいつも腹を立てたらしくて、今、絶交してるようだ。あとの奴らはまだまだ半人前(めえ)でさア」

    「成程、二代目より磯麿の方が腕は上か。最近、和泉屋(いずみや)が磯麿に美人絵を頼んだって聞いたが、さすが、あの旦那だ。見る目がある」

    「ほう、泉市(せんいち)(和泉屋市兵衛)の旦那が磯麿にねえ。奴なら二代目なんかにゃア負けやしねえさ」

    「おまえさんも二代目に負けねえようなのを描いて下さいよ」

    「任しといて下せえ。歌麿門で師匠に負けねえ枕絵(まくらえ)が描けるのは、はばかりながら俺様だけだ」

    「楽しみにしてますからね」

     その晩、一九と月麿はそれなりに粋(いき)な姿に着替え、村田屋の旦那と一緒に柳橋から猪牙舟(ちょきぶね)に乗って深川へと漕ぎ出した。

     蒸し暑い一日だったので、夕涼みの人々が両国広小路に繰り出し、川開きにはまだ早いが賑やかなものだった。舟に揺られながら、月麿はいい気分で鼻歌を歌っている。

     ♪恋の夜桜浮気で通う
            間夫(まぶ)の名取りの通り者
                  喧嘩仕掛けや色仕掛け~

     助六(すけろく)になったつもりで、揚巻(あげまき)ならぬ夢吉の事を思っている。村田屋の旦那は雲間に浮かぶ月を見上げながら、自慢の銀煙管で一服つけ、一九は腕組みしながら、さっそく、読本の構想を練っていた。

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