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粋な辰巳芸者を巡って、十返舎一九と喜多川月麿が草津温泉で巻き起こす馬鹿騒ぎをお楽しみ下さい。
2024 . 05
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    歌川国安画 草津温泉・滝の湯


     

    10.謎の文

     

     

     夜が明けた。

     夢吉はついに帰って来なかった。月麿は一睡もせずに夢吉の帰りを待っていた。

     中善(なかぜん)の宿屋の二階の廊下に座り込み、疲れきった顔で広小路を眺めていた月麿は部屋の方を振り返った。太鼓持ちの藤次が何事か寝言を言っている。湯安(ゆやす)の座敷に行ったまま、豊吉と麻吉の二人は帰って来なかった。

    「畜生、どこに行っちまったんでえ」

     小雨がまた降っている。とうとう、梅雨に入ってしまったようだ。

     朝湯に向かう客の下駄の音が廊下に響き、豆腐売りの声も聞こえて来た。

    「あのう、もし」と女の声がした。

     月麿が声の方を向くと漬物売りの娘が立っていた。

    「いらねえよ」と月麿は手を振った。

    「あのう、江戸からいらした豊吉さんのお連れさんですか」

    「豊吉ねえさんならいねえよ。何か用か」

    「それじゃア、月麿さんて方はいますか」

    「なに、月麿は俺だが」

     月麿は不思議そうに娘を見た。

    「文(ふみ)を頼まれたんですけど」と娘は手に持っている手紙を見せた。

    「俺に? 誰からでえ」

    「夢吉からだって言えばわかるって」

    「なんだ、夢吉からの文だと」

     月麿は娘の手から引ったくるように手紙を受け取った。手紙は二つあり、一つは豊吉あて、もう一つは月麿あてだった。

    「おい、おめえ、こいつをどこで頼まれたんだ。夢吉はどこにいるんだ」

    「滝の湯の所で頼まれました」

    「なに、滝の湯に夢吉がいるのか」

     月麿は手摺りから身を乗り出して、『滝の湯』の方を見た。しかし、夢吉の姿は見えなかった。

    「はい、滝の湯のお茶屋さんで声を掛けられたんです」

    「で、夢吉は一人でいたのか」

    「一人だと思いますけど」

    「ありがとよ」と言うと、月麿は一目散(いちもくさん)に『滝の湯』に向かった。

     『滝の湯』には気楽な顔して、のんびり朝湯に浸かっている男が六人いるだけで、夢吉の姿はどこにもなかった。茶屋の女もまだ一人しかいない。その女に夢吉の事を聞くと、そんな女は来ていないという。漬物売りの娘に文を渡したはずだと言うと、それは女ではなく若い男だったと言う。

    「若え男が文を渡してたのか」

    「そうですよ。その娘(こ)、おくりちゃんて言うんだけどね、おくりちゃんに文を頼んでたのは、確かに若い男さ」

    「誰なんでえ、その男ってえのは」

    「そんな事、知りませんよ。ただ、地元の人じゃないね。見た事ないからね。ここに来たばかりのお客さんじゃないのかい。まだ、髪を解いてなかったからねえ」

    「くそっ、一体(いってえ)、誰なんでえ」

    「ちょっと話を聞いちゃったんだけどね、その男、夢吉とか豊吉とか言ってたけど、中善さんにいる江戸の芸者さんの事だんべ」

    「おめえ、夢吉を知ってるのかい」

    「そりゃア知ってますよ。ここに来るお客さんがよく噂してます。桐屋さんで働くんだってねえ。みんな、楽しみにしてますよ」

    「へっ、そいつはどうだかわからねえよ」

     月麿は湯安に帰ると廊下を歩きながら手紙を読んだ。

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    上州草津温泉之図 湯本安兵衛版


     

    9.歓迎の宴

     

     

     宿屋に戻ると一九と津の国屋は帳場のある建物の三階の広間に案内された。ここも眺めがよく、床の間の付いた立派な広間だった。すでにお膳が並び、都八が一人、部屋の隅で壷廻りの女、おかよと何やら楽しそうに話している。

    「お帰りなさいませ」とおかよは頭を下げると出て行った。

     後ろ姿を見送りながら、

    「可愛い娘だ。あれだけの娘は江戸にもそうはいめえ」と津の国屋が笑った。

    「桐屋の料理だそうです」と都八がお膳を示した。

    「ほう、大(てえ)したもんだな。江戸の料理屋なみじゃアねえか」

     一九は煙草盆のそばに座ると、

    「月麿はどうした」と都八に聞いた。

    「それが、夢吉の帰(けえ)りを待つって中善に居座ってんですよ。豊吉(とよきち)たちと会ったそうですね。今、喜んで支度をしてます」

    「相模屋は見つかったのか」と津の国屋が腰の煙草(たばこ)入れを外して煙管(きせる)を取り出した。

    「それが、中善の隣りにある山本十右衛門に泊まってました」

    「なに、本当に来てたのか」

     津の国屋は煙草を詰める手を止め、信じられないという顔をした。

    「まさか、追って来るとはなア」

    「へい、驚きましたよ。一昨日、こっちに着いたようです。それが、やっと見つけたんですよ。まず、ここの帳場で聞いて、それから、広小路に出て、すぐ右側にある宮崎文右衛門で聞いて、その隣りの坂上(さかうえ)治右衛門(じえもん)、中沢杢右衛門、湯本角右衛門と順番に聞いて行って、やっと、山十(やまじゅう)にいたってわけです。ところが、やっこさん、てめえんちが燃えちまったってえのに、いい身分で遊んでやがるんですよ。一緒に来た連れと桐屋に入り浸ってんです」

    「で、夢吉もその桐屋にいたのか」

    「それが、相模屋の奴も夢吉を捜してるようで。一昨日、中善にいる夢吉を見つけて会って、昨日も会ったらしいんだけど、今日、会いに行ったらいなかったそうです。その後、捜し回ったけど見つからなくて、やっこさん、河内(かわち)屋ってえ連れとやけ酒くらってましたよ」

    「河内屋? 何者だ」

    「さあ、酒屋仲間じゃねえですか。でも、あの面構(つらがめ)えはただの旦那じゃねえな。あくでえ商売(しょうべえ)をしてるに違えねえ」

    「河内屋か‥‥‥」と津の国屋は考えていたが、

    「聞いた事アねえな」と首を振った。

    「とにかく、夢吉が相模屋と一緒じゃねえとすると、一体(いってえ)、どこに行っちまったんだ」

    「さっぱりわからねえ」と都八も首を振る。

    「月麿の奴は相模屋と一緒じゃねえ事がわかって喜んでますがね」

    「妙だな。雨っ降りにそう遠くへ行くめえとは思うが」

    「そのうち、ケロッとした顔で帰って来ますよ」

    「そうだな。帰って来りゃア豊吉たちと一緒にここに来るだろう。あれ、豊吉たちは相模屋の面を知らねえのか」

    「それが知らねえんだそうです。噂にはよく聞くけど、二人とも会った事はねえそうで。あれが相模屋の旦那だったのって、たまげてましたよ」

    「へえ、そうかい。もっとも、やっこさんは夢吉一筋だったからな」

     津の国屋は心配している様子はないが、一服つけながら話を聞いていた一九は何となく、いやな予感がした。

    一九の膝栗毛より「滝の湯」


     

    8.消えた夢吉

     


     当時の草津には『御座(ござ)の湯』『熱(ねつ)の湯』『綿(わた)の湯』『かっけの湯』『滝の湯』『鷲(わし)の湯』『地蔵(じぞう)の湯』『金毘羅(こんぴら)の滝の湯』と八つの湯小屋(正確には七つ、かっけの湯は露天だった)があり、内湯があったのは湯本三家といわれる湯本安兵衛、湯本平兵衛(へえべえ)、湯本角右衛門(かくえもん)の三つの宿屋だけだった。これらの三家は江戸時代の初期まで、真田家の家臣として草津を支配していた湯本氏の流れであった。広小路に隣接した一等地に宿屋を持ち、湯池から樋(とい)でお湯を引いて内湯を作っている。安兵衛では『不老の滝』と呼ばれる内湯があった。

     滝に打たれて湯に浸かり、壷(つぼ)に戻って、さっそく地酒を茶碗酒。のんびりくつろいでいる所に、月麿が血相を変えて帰って来た。

    「先生、先生、大変(てえへん)なんだ」

    「なんだ、また、おめえの大変が出たな。さては、夢吉にけんつくを食らわされたな」

     一九が笑うと、

    「わざわざ草津までやって来て、すぐに突き出されるたア可哀想なべらぼうだ」と都八が大笑いする。

    「まあ、落ち着いて、一杯(いっぺえ)やれ、うめえ酒だぞ」と津の国屋ものんきに笑っている。

    「それどころじゃねえんですよ。当の夢吉がどこにもいねえんだ」

    「おめえの捜し方が下手くそなんだろう」

    「そうじゃねえってば。捜すとこはみんな捜したんだ。畜生め、夢吉の奴、消えちめえやがった。どこ行っちまったんだよう」

     月麿は半ば、べそをかいている。

    「なに、夢吉が消えただと」

     津の国屋もようやく、真顔になった。

    「旦那、そうなんで、どこにもいねえんでさア」

    「桐屋にもいねえのか」

    「いるはずなのにいなかったんで。梅吉ってえ夢吉を呼んだ芸者に聞いたら、今の時期はまだ暇だから、すぐに仕事はねえってんで、中沢善兵衛って宿にいるって言うんですよ。それで、すぐに中善(なかぜん)に飛んでったんでさア。中善に夢吉と一緒に来た芸者たちはいたんだけど、夢吉だけがどこにもいねえんです」

    「おめえが来たのを知って、どこかに隠れちまったんじゃアねえのか」と一九は月麿をからかう。

    「違えねえ。おめえにゃア、もう会いたくねえんだとさ」

    「やかましい。おめえは黙ってろ」

     月麿は都八をジロっと睨んでから話を続けた。

    「誰だかわかんねえけど夢吉に会いに来た男がいるんだ。一昨日(おとつい)、そいつがやって来て、夢吉と何やら話をしてたらしくて。昨日もその野郎としばらく会ってたようなんです。そして、今日の昼過ぎ、一人でどこかに行ったまま、まだ帰って来ねえんですよ」

    「その男ってえのは何者なんだ」

    「そいつが皆目(かいもく)、わからねえんです。仲間たちも誰も見た事もねえ男だと。江戸者らしいんですが」

    「夢吉を知ってんだから江戸者だろうな」

    「相模屋が追って来たんじゃねえのか」と津の国屋が団扇(うちわ)を扇ぎながら言う。

    「奴とは別れたはずです」

    「いや、そいつはわからねえよ。相模屋が燃えちまって、夢吉とは別れなけりゃアならなくなったが、やっこさん、未練があって追って来たのさ。いや、はなっから、こっちで会う約束があったのかもしれねえ」

    「そんな‥‥‥それじゃア、夢吉は今、相模屋と一緒にいるってえんですか」

    「そうかもしれねえな」

    「畜生、そんな真似はさせねえ」

    「そんな真似をさせねえったって、二人の気持ちが別れてなけりゃア、おめえの出番なんかねえぞ」

    「先生、何とかして下せえよ」と月麿は一九を頼る。

    「何とかしろったって、そんなのア無理だ。相模屋と会ってるにしろ、そのうち、宿屋に帰って来るだろう。待つしかねえな。まず、湯に入って、のんびり待つ事だ。いい湯だったぞ」

    「そんな心境じゃありやせんよ」

     どうしたらいいんだとおろおろしている月麿を見ながら、皆、笑っている。可哀想に思ったのか、

    「おい、月麿、相模屋を捜してみろ」と津の国屋が助け舟を出す。

    「つぶれたにしろ相模屋ともあろう者が安宿に泊まってるはずはねえ。大きな宿屋を捜しゃア、案外、すぐに見つかるぞ」

    「そいつだ、旦那」

     月麿は嬉しそうに膝を打つと、

    「あっしはひとっ走り、捜して来まさア」と飛び出して行った。

    「おい、俺も行くぜ」と都八が慌てて後を追って行く。二人を見送った後、

    「旦那、夢吉と相模屋の仲は本当のとこ、どうだったんだ」と一九が聞くと津の国屋は首を傾げた。

    「男と女の仲は俺にもわからんよ。ただ、夢吉が相模屋の妾(めかけ)になったんは、母親が倒れたからだろう。母一人娘一人だったから、母親の看病をするのは自分しかいねえ。仕事をしてたら看病はできねえし、仕事を休むわけにも行かねえ。そこで、相模屋の妾になって母親の看病に専念したってえわけだ。相模屋のお陰でいい医者にも見せ、いい薬も飲んで、母親はすっかりよくなったらしい。しかし、その母親も去年の暮れ、亡くなったそうだ。たった一人の身内が亡くなり、頼れるのは相模屋一人になっちまった。その相模屋が火事になって別れを告げられ、心を癒(いや)すために草津にやって来たんだろう。もし、本当に相模屋が追って来たとすりゃア、夢吉としてはよりを戻すしかねえのかもしれねえな」

    「母親のために妾になったとしたら、相模屋に本気で惚れてたわけじゃアねえんだな」

    「そいつはわからねえな。そん時は本気で惚れてなかったにしても、四年間も囲われてりゃア気持ちも変わるんじゃアねえのか。相模屋は俺たア違って、あっちこっちで遊んだりはしねえからな。夢吉を大切にしてたろう」

    「そうか‥‥‥その相模屋が草津まで追って来たとなりゃア、月麿なんかが今頃、面を出しても勝てるはずはねえか」

    「思わぬ強敵が現れたもんだな。しかし、やっこさんじゃアねえんじゃねえのか。奴は今、草津まで来る余裕はあるめえ」

    「たまたま、夢吉を知ってる奴が顔を出したのかな」

    「だと思うがな。月麿の奴が騒ぎ過ぎるんだろう」

     夕飯前にちょっと散歩でもするかと一九と津の国屋も壷を出た。

    草津温泉、広小路の図


     

    7.湯本安兵衛

     

     

     『綿の湯』の湯小屋から湯池の囲いに沿って下りて行くと途中から急坂になり、湯池からお湯が滝となって落ちていた。

    「これが『滝の湯』です」と月麿が説明する。

    「この滝に打たれりゃアどんな病もたちまちに治っちまうんだ」

     『滝の湯』を覗くと大小様々な滝がいくつも落ち、滝に打たれている客が十二、三人いる。皆、男ばかりで、ふんどしをしながら入っている。

    「あれ、すいてるな」と月麿が意外そうな顔をした。

    「この前、来た時は客が一杯(いっぺえ)で、滝に打たれるのも順番待ちだったぜ」

    「丁度、梅雨時なんで、すいてんだろう」と津の国屋がお湯の中に手を差し入れた。

    「思った程、熱くはねえな」

    「ここは男湯なのか」と都八も手を入れてみる。

    「いや。勿論、入り込(ご)みさ。若え女子(おなご)が滝に打たれてる風情(ふぜえ)ってえのは、五右衛門じゃアねえが、それこそ絶景ってえもんだ」

    「そうか、そうだろうなア。思い浮かべただけでも、たまらねえ。早く拝みてえもんだ」

     『滝の湯』の前には茶屋が並び、茶汲み女がしきりに声を掛けて来る。

    「この茶屋で休みながら、湯に浸かるんだ。体を拭いてくれたり、冷てえ水を出してくれたり面倒味がいいもんだ。年増(としま)が多いが中には若え娘もいる。馴染みになりゃア、そりゃもう、いい思いもできるってもんさ」

     茶屋の女たちを眺めながら『滝の湯』から出ると、

    「あれが湯本安兵衛の宿屋だ」と月麿が目の前の立派な宿屋を指さした。

    「ほう、こいつは一等地の宿屋だ」

     津の国屋も一九も満足そうにうなづく。

    「そうさ。湯本三家と言って、草津の古株だアな。成田屋(市川団十郎)だって定宿(じょうやど)にしてるんだぜ」

    「そいつはいい宿に間違えねえ」

     石段を上ると広い庭があり、正面に三階建ての建物がある。二階の廊下に湯治客が何人かいるのが見えた。右と左に二階建てがあり、廊下でつながっている。見渡した所、お客はあまりいないようだ。一行が庭に入ると番頭が出て来て、

    「いらっしゃいませ」と寄って来た。

     帳場に行き、入り口の番小屋で貰った手札を渡す。

    「江戸の津の国屋さん‥‥‥ええと以前、うちにお越しでしょうか」

     五十年配の年期の入った番頭は津の国屋と月麿の顔を見比べた。一九は宿屋の中を珍しそうに眺め、都八は何をしているのか、庭からまだ入って来ない。弥助は津の国屋の後ろでキョロキョロしていた。

    「いや、わたしは初めてだ。この月麿は以前、お世話になったそうだ」

    「月麿さん?」

    「ほれ、覚えてねえかなア。ありゃアもう十年も前の事だ。番頭さんなら知ってるはずだぜ。有名な美人絵師、喜多川歌麿師匠と有名な戯作者、山東京伝先生、それと版元の蔦屋の旦那と一緒に来たんだが」

    「あアあア、思い出しましたよ。あの時の‥‥‥そうでございましたか」

    「あん時ゃアまだ、俺は月麿とは言ってなかったっけ。ただの千助(せんすけ)だった」

    「はいはい、覚えておりますよ。歌麿師匠のお弟子さんで。そうですか、あん時のお弟子さんが月麿さんでしたか。月麿さんの絵は何度か見ております。確か、十返舎一九の黄表紙の絵も描いてましたねえ」

    「今回は、その一九先生も一緒だ」

    「えっ、一九先生?」

    「よろしくお願いしますよ」と一九は笑った。

     『膝栗毛』のお陰で、一九の名は江戸だけでなく、地方にも有名になっていた。

    「これは、これはようこそ。一九先生がお越しになるとは。これはうちの旦那も大喜びの事でしょう。弥次さん、北さんが草津に来てくれればいいといつも言っております。そうですか、一九先生が。まあ、どうぞ、ごゆっくりなさって下さいまし」

     帳場に道中差と銅銭以外の所持金を預けた一行は番頭に案内されて部屋へと向かった。

    現在の暮坂峠


     

    6.草津へ

     
     

     いよいよ、旅の始まり。朝早く、板橋宿を旅立った一行は中山道(なかせんどう)を北へと向かった。

     生憎(あいにく)、小雨が降っていたが、やっと、草津に行ける月麿の心は晴れ晴れと浮かれている。

     一行は津の国屋の旦那、三味線弾きの都八(とっぱち)こと都八造(みやこはちぞう)、一九に月麿、荷物持ちに津の国屋の下男、弥助が従った。

     津の国屋の旦那は三十八歳、名は伊兵衛という。新橋山城河岸の大きな酒屋の主人で、盛り場では知らない者はいないという粋な遊び人。俳諧、狂歌に長じ、芝居を見に行けば、茶屋に有名な役者を呼んで盃を取らせ、吉原に行けば、一流の花魁(おいらん)と遊び、深川に行けば、一流の芸者と遊び、品川、新宿にも仲間を引き連れて繰り出し、大盤振る舞いを演じていた。

     都八造は三十二歳、本名を池田八右衛門といい、旗本池田氏の婿となるが禄(ろく)を失って、下谷広徳寺門前で櫛(くし)作りや竹細工などをして生計を立てている。一中節(いっちゅうぶし)の三味線の名手で寄席(よせ)にも顔を出し、津の国屋に気に入られて取り巻きになっていた。

     弥助は上州佐位郡(さいごおり)平塚(ひらづか)村の生まれで、草津にも行った事があるので、道案内も兼ねて従っている。

     津の国屋も都八もこれといって旅支度もしていない。ちょいと、そこいらに遊びに行くような格好だ。着流し姿に下駄履きで蛇(じゃ)の目傘を差し、都八は三味線まで持って来ている。着替えなどは弥助に持たせているらしいが、気楽なものだった。意気込んで、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に草鞋(わらじ)履き、菅笠に合羽(かっぱ)を着込んだ一九と月麿の姿が何だか馬鹿らしく感じられた。

    「先生、『膝栗毛』を書く時は、いつも、こうやって旅に出るんですか」

     都八が一九の横に来て声をかけた。

    「まあ、そうですな。知らねえ土地はうまく書けねえからねえ」

    「そうでしょうねえ。来年は大坂が舞台(ぶてえ)で、その後、あの二人はどちらに行くんですか」

    「いや。とりあえずは大坂でおしめえなんだ」

    「えっ、おしめえなんですか。そんな、勿体ねえですよ」

    「いや、あれだけ書きゃア、もう充分だ」

    「そうですか‥‥‥先生が草津に行くと聞いて、今度は草津道中を書くんだと思ってたんだけど違ったんですか」

    「そうじゃねえんだ。今度は読本(よみほん)を書こうと思ってね、そのネタ捜しに行くんだよ」

    「へえ。読本のネタですか」

    「まあ、月麿の奴に是非にと誘われてな」

    「そうですか。うちの旦那も突然、草津に行くぞと言い出しましてね。さては、悪(わり)い病(やめえ)でもわずらったかと、ハッとしましたよ。そしたら、なんと、夢吉ねえさんに会いに行くってえじゃありませんか。まったく、女を追いかけて草津くんだりまで行くたア‥‥‥まあ、お陰であっしもお供ができるんですけどね」

    「ちょっと聞きてえんだが、旦那は本気で夢吉を?」

    「さあ、どうだか。本気のようで冷めてるようなとこもあるし、旦那の考えてる事はよくわかりませんよ」

    「でも、わざわざ会いに行くんだから、やはり、本気なんだろう」

    「かもしれませんが、旦那も江戸の遊びはもう飽きちまって、ちょっと河岸(かし)を変えて、草津あたりで遊んでみようと思っただけなのかもしれませんねえ」

    「それならいいんだけどな、月麿の方はどうやら本気のようだ。向こうで騒ぎにならなけりゃアいいがな」

    「そうですね。夢吉ねえさんといやア、あの頃、仲町だけでなく、辰巳の板頭(いたがしら)と言ってもいいくれえの勢いでしたからねえ。でも、引っ込んでから、もう四年、今はどんな風になってるか、まあ、一目見てみてえってえのが人情だ。あん時以上の別嬪(べっぴん)になってりゃア、旦那だって本気になるでしょう」

    「そうか、夢吉が引っ込んでから、もう四年にもなるのか。四年も相模屋の囲われ者(もん)だったとすると変わっちまったかもしれねえな。月麿は四年前(めえ)のままの夢吉を思い詰めてるに違えねえ。月麿のためにも変わっててほしくはねえな」

    「そうですね。でも、四年という月日は女を変えますよ」

    「だろうな」

     一九と都八の後ろでは、津の国屋と月麿が昔の夢吉の事を話し、しきりに懐かしがっていた。

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