2.村田屋と京伝
通油町の表通りに店を構える絵草紙屋(えぞうしや)、村田屋治郎兵衛(じろべえ)は一九の『膝栗毛』を売り出している版元(はんもと)だった。自分で挿絵も描いた『浮世道中膝栗毛』と題した原稿を一九が村田屋に持って行ったのは七年前の享和(きょうわ)元年(一八〇一年)の事だった。
それ以前にも一九は黄表紙(きびょうし)と呼ばれる絵を主とした読み物を毎年、何作も発表していた。寛政(かんせい)七年(一七九五年)正月に三作の黄表紙を売り出したのを初めとして、八年には二十作もの黄表紙を売り出し、九年には十九作、十年にも十九作、十一年にも十九作、十二年には十五作、享和元年には十九作と書きに書くまくっていた。しかし、これといって話題になる作品はなかった。『膝栗毛』は黄表紙ではなく、滑稽本(こっけいぼん)と呼ばれる読み物で、一九も大して期待して書いたわけではなく、それ一冊で終わるはずだった。ところが、翌年の正月に売り出されると、たちまち話題となった。一九自身もたまげる程の人気で江戸は勿論の事、地方にまで売れに売れた。村田屋の旦那は大喜び、続編を出そうという事になり、それから毎年、正月に次々に続編が売り出された。
初編で神田の八丁堀の裏長屋から箱根まで行った弥次郎兵衛、北八の二人は失敗を繰り返しながら、二編で駿河(するが)(静岡県東部)の岡部まで、三編で大井川を越えて遠江(とおとうみ)(静岡県西部)に入って新居まで、四編で三河(みかわ)(愛知県東部)を過ぎ、尾張(おわり)(愛知県西部)の熱田の宮から船に乗って伊勢(三重県北部)の桑名まで、五編で伊勢の山田まで、五編の追加で伊勢神宮をお参りして、六編で奈良街道を通って京都まで行き、今年、文化五年(一八〇八年)の正月に売り出された七編では京都見物を楽しんでいる。十返舎一九の名は弥次さん、北さんと共に全国に知れ渡り、押すも押されぬ売れっ子作家となっていた。
そんな一九が月麿と一緒に村田屋に顔を出すと、主人の治郎兵衛は顔を崩して機嫌を取った。『膝栗毛』が来年正月に売り出す八編で終わるのはわかっている。一九はそれでもうおしまいにしようと思っているが、版元としては、さらに続編を書いて貰わなければならない。売れっ子作家を手放す訳にはいかないのだ。
「旦那、いい話を持って来ましたぜ」
浮世絵や黄表紙、滑稽本らが所狭しと並ぶ店先から客間に通されると月麿が調子よく話し出した。
「何だい、揃って。また、一騒ぎ起こそうってえ魂胆(こんたん)だな。面白い趣向なら是非、乗りましょう」
治郎兵衛はニヤニヤしながら、二人の顔を見まわした。
「へい。まあ、面白え趣向なんですがね、今回は茶番じゃねえんで、仕事の話なんですよ」
治郎兵衛と一九、月麿は版元と作家という関係だけでなく、十返舎社中という噺(はなし)の会を作り、定期的に集まっては落語をやったり、狂歌をひねったり、茶番をやったりして遊ぶ仲間だった。
「ほう。二人で組んで合巻(ごうかん)でもやりますか」
合巻というのは黄表紙が発達したもので、だんだんと話が長くなったため、数冊をまとめて綴じた物をそう呼んでいた。当時、敵(かたき)討ちを扱ったものが流行(はや)っていて、一九も月麿や他の絵師と組んで何作もの合巻を発表している。
「ええ。合巻でも滑稽本でも、読本でも何でもいけますよ、ねえ、先生」
「まあな」
「ほう。そいつは凄い。で、その趣向は?」
「草津ですよ。上州草津の湯です」
「なに、草津の湯‥‥‥うーむ、そいつは面白えかもしれんな。この間も、鬼武(おにたけ)さんと話したんだが、草津はえらい評判らしいな。もっぱら、江戸者ばかりとの噂だ。どうも、江戸の芸者衆もいるらしい」
「旦那、それなんですよ、それ。辰巳芸者もいるんでさア。旦那もご存じでしょう夢吉を。その夢吉も草津に行ったんです」
「なに、あの夢吉がか」
「へい、そうなんです。あの夢吉が草津にいるんですよ。あっしは夢吉を美人絵に描こうと思ってんでさア」
「夢吉は身請けされたと聞いたが、また、芸者に戻ったのか」
「そうらしいや。旦那、夢吉の絵を出してやって下せえよ」
「まあ、出してやってもいいがな、それより、草津の話ってえのは面白そうだ。弥次さん、北さんを草津に行かせりゃいい。うむ、草津道中膝栗毛、うむ、こいつア受ける事、間違えなしだ」
「そりゃアもう、そいつを読んだら、江戸っ子が連なって草津に出掛けやすよ。そこで、旦那、ちょいと相談なんですが、路銀(ろぎん)をちょっくらお借りしてえと思いまして」
「やはりな。結句(けっく)はそこに行くと思ってたよ。急に言われても、そう、すぐには返事はできん。まあ、何とかやってみよう。もう少し待っていてくれ」
「さすが、旦那だ。物わかりがいいねえ」
「そんなにおだてんでもいいわ。ところで、先生」と治郎兵衛は月麿から一九に視線を移す。
「『膝栗毛』の八編の方は順調なんですか」
「そりゃアもう大丈夫(でえじょぶ)ですよ。舞台(ぶてえ)は大坂ですからね。七年余りも住んでた土地だ。ネタもたっぷりありますよ」
「そうですか、安心しました。上州草津の湯か‥‥‥実にいい所に目をつけましたねえ」
「実は読本を書こうと思いまして」
「読本と言えば、馬琴先生と北斎先生が大した本を出しましたねえ。あれは評判がいい。先生も負けずに面白えのを書いて下さいよ」
1.通油町
梅雨が始まる前の五月(さつき)晴れ、澄んだ青空には威勢よく泳ぐ鯉のぼり、大小様々、色鮮やかに泳いでいる。その鯉のぼりに負けまいと、花の大江戸、本町(ほんちょう)通りを勢いよく走っている男がいる。手ぬぐいを肩にかけ、弁慶格子(べんけいごうし)の単衣(ひとえ)を尻っぱしょりして、息せききって走っている。
「おう、どいた、どいた、邪魔だ、邪魔だ」
年の頃は三十半ばのいなせな遊び人という身なりのこの男、今、売り出し中の浮世絵師、喜多川月麿(きたがわつきまる)という。美人絵を描かせたら天下一品といわれた歌麿(うたまる)の弟子である。
師の歌麿は一昨年(おととし)の九月に亡くなってしまい、今はもういない。それでも、歌麿の人気が衰える事はなく、歌麿流の美人絵が巷(ちまた)に溢れていた。歌麿の弟子だった二代目歌麿、月麿、秀麿、藤麿、磯麿らは勿論の事、他流の勝川春扇(しゅんせん)、鳥居清峰(きよみね)、菊川英山(えいざん)までもが歌麿流の美人絵を描いて競い合っている。今のところ、この中で飛び抜けた者はいない。月麿は偉大なる師匠を越えようと頑張っていた。
緑橋を渡って 通油町(とおりあぶらちょう) に入ると右に曲がり、月麿は廐新道(うまやしんみち)に入って行った。小さな店の建ち並ぶ通りをわき目も振らず、提燈(ちょうちん)屋の角を曲がって裏長屋へと入って行く。
狭い中庭にも小さな鯉のぼりが暑い日差しの中、頼りなくぶら下がっている。井戸端では二人の女が洗い物の手を休めて、ベチャクチャ話し込んでいる。女たちは飛び込んで来た月麿に驚き、顔を上げた。
「あら、月麿さんじゃない。脅かさないでよ」と言ったのは、若い方の女。髪をばい髷(まげ)に結い、深川鼠(ねずみ)の単衣に藍地に桜を散らした前垂れ姿はなかなか粋なおかみさん。
「血相を変えて、一体、どうしたんです」
月麿はおっとっとと立ち止まり、息を切らせながら目の前の長屋を指さし、
「先生は、先生はいやすかい」とやっとの思いで吠えた。
「ええ、いますよ。いつものように、ごろごろ寝そべったまま本を読んでます。本を読んでは、佐吉め、佐吉め、こん畜生、奴にゃア負けられねえって、昨日からずっと唸ってますよ」
月麿はおかみさんの話を最後まで聞かず、先生の家(うち)に飛び込んで行く。暑いので入り口の戸は開けっ放し、六畳二間と二階付きの長屋。先生は奥の間にいた。寝そべってはいないで、文机(ふづくえ)に向かって仕事に熱中している。
月麿はちびた下駄を脱ぎ散らかして、さっさと部屋に上がり込んだ。
「先生、先生、大変(てえへん)なんだ。一大事(いちでえじ)だ。俺アもう、どうしたらいいんでえ」
月麿が騒いでも、先生は知らんぷり、何かをぶつぶつ言いながら、文机に向かっている。
この先生、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)という戯作者(げさくしゃ)で、弥次さん北さんでお馴染みの『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』の作者である。『膝栗毛』が思いの外、売れに売れ、今では引っ張り凧(だこ)の売れっ子作家。
「先生、先生、大変なんだってばよお、のんきに仕事なんかしてる場合じゃねえ」
「やかましい野郎だなア。おい、おめえ、そいつを読んでみたか」
一九は振り返ると散らかっている十二冊の半紙本(はんしぼん)を顎(あご)で示した。波しぶきの描かれた表紙に『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』と書いてある。月麿は汗を拭きながら一冊を手に取って眺めた。
「なんでえ、馬琴(ばきん)先生の読本(よみほん)じゃねえか。まだ、読んじゃアいやせんがね、絵の方はじっくりと見させてもらいやしたよ。さすが、北斎(ほくさい)先生だ。すげえ絵を描くねえ。大(てえ)したもんだ。で、こいつがどうかしたんですかい」
「へっ、悔しいがな、面白え。去年、前編を売り出したんは知ってたが、大(てえ)した事アねえだろうと読みもしなかった。ところが、昨日、貸本屋がやって来て、面白えからって置いてきやがった。ええ、いめえましい。あいつがこれだけのもんを書くたアまったく、たまげたぜ。佐吉の野郎にゃア負けられねえんだ。俺も読本を書かなきゃならねえ」
「あれ、『膝栗毛』はもうやめですかい」
「ありゃアもう今年書き上げたら、それでおしめえだ」
「そう簡単に終われますかね。村治(むらじ)の旦那が諦めねえでしょう。『続膝栗毛』を書けってえに決まってやすよ。今度ア、中山道膝栗毛、そして、甲州街道膝栗毛、奥州街道膝栗毛とネタはいくらでもありやすからね」
「うるせえ!」と一九は本気で怒る。
「膝栗毛なんかどうでもいいんだ。俺はな、読本を書くって決めたんだ」
「へいへい、わかりやした」と月麿はうなづき、
「で、一体、どんなのを書くんでやすか」と機嫌を取るように聞いてみる。
「そいつを今、思案中よ。せっかく、うめえ趣向(しゅこう)が浮かんだと思ったら、おめえが騒ぎやがるから、ころっと忘れちまったじゃねえか。くそったれめが」
「おっと、こっちこそ、忘れるとこだった」
月麿は馬琴の読本を放り投げると膝を進めて、
「先生、一大事なんだ」と真剣な顔をしてみせる。