14.鷺白
雲嶺庵(うんれいあん)は泉水の通りを望む高台の上にあった。庵(いおり)と呼ぶにふさわしく、それ程、大きな建物ではなく、板葺きの屋根には、やはり石が乗せてあった。手入れの行き届いた庭を通って、縁側の方に行くと話し声が聞こえて来た。
丸髷(まるまげ)に結った若い女が縁側に腰掛け、鷺白(ろはく)と話をしている。
「まあ、湯安さんの若旦那じゃありませんか、いらっしゃいませ」と女は丁寧に頭を下げた。
「おや、十返舎(じっぺんしゃ)先生と月麿先生もご一緒か」と鷺白が振り向いて言った。
「まあ、十返舎先生でございましたか。どうぞ、ごゆっくりして行って下さいませ」
女は再び、丁寧に頭を下げ、
「それじゃア、その通りにいたします」と鷺白に言うと去って行った。
「頼むぞ」と鷺白は女の後ろ姿に言った。
女は振り返って、軽く笑った。
一九も月麿もその女の美しさにしばし、見とれていた。
「うちの嫁じゃ」と鷺白は笑った。
「先生方は江戸の俳人(はいじん)で二六庵(にろくあん)一茶(いっさ)先生をご存じですかな」
「はい、噂だけは聞いておりますが」と一九は言った。
鷺白はうなづいた。
「その一茶先生が今月、草津に来られるはずだったんじゃがな、どうやら、来月の末になるらしい。その事を今、知らせに来たんじゃよ。まあ、どうぞ、お上がり下さい。狭い隠居所で散らかっておりますが」
鷺白の書斎らしいその部屋には書物が積み重ねられ、仕事をしていたらしく、文机(ふづくえ)の上には書きかけの文が乗っていた。
「句集を出そうと思いまして、ちょっと整理をしていたとこなんですよ。まあ、どうぞ、楽にして下さい」
「先生、いよいよ、出しますか」と新三郎が文机を覗きながら言った。
「お前ももっとみしみてやれば、句集に入れてやるが、今の腕じゃアまだまだだぞ」
「はい、すみません。色々と忙しくって」
「何を言っておる。毎晩、桐屋に入り浸ってるようじゃな。遊びも結構じゃが、やるべき事はやらんとな」
「はい、わかってますよ」
鷺白のおかみさんらしき女がお茶をもって来た。鷺白よりも随分と年が若いようだった。
「先生にちょっと見てもらいたい物がありまして、お邪魔したんですけど」
新三郎がそう言って、夢吉の手紙の事を説明した。
「ほう。さすが、深川の芸者ですな。やる事が粋(いき)ですねえ」と鷺白は夢吉の手紙を見た。
「これは薬師さんにある龍山公の歌のようじゃが、少し、違うようじゃな」
「そうなんです。上(かみ)の句と下(しも)の句がバラバラで順番も違うんです」と月麿は自分が写した龍山の歌も見せた。
「うーむ。この中に謎が隠されているというのですな」
「はい。どうも、歌の事は難しくって、さっぱりわかりません」
「昔の連歌師(れんがし)は連歌の中に謎を入れて遊んでいたようじゃ。龍山公が詠んだように、句の頭の字を決めて、歌を詠むのも一種の遊びじゃな。ところで、先生方は龍山公とはどんなお方だったか、ご存じですかな」
「さあ、昔の偉いお坊さんだとは思いますが、詳しい事は」と一九は首を振る。
当然、月麿もわからないと首を振る。
「うむ。一応、入道(にゅうどう)して龍山と名乗っておりますが、お坊さんではなくてお公家(くげ)さんなのですよ。それもただのお公家さんではない。関白(かんぱく)にもなられた偉いお人なのです。時代的には織田信長や武田信玄、上杉謙信らの武将が活躍していた頃のお人なんです。信長とは特に親しい間柄だったらしく、信長が本能寺で殺された時、頭を丸めて龍山と号したんですよ。龍山公が草津に来られた天正十五年(一五八七年)はもう戦乱の世も終わり、太閤(たいこう)秀吉の天下になっておりました。龍山公も安心して京都からの長旅を楽しんだ事でしょう」
鷺白は龍山の事について、さらに詳しい話をしてくれた。
龍山は父親から『古今伝授(こきんでんじゅ)』という歌道の極意を授かっていて、書もうまく、有職故実(ゆうそくこじつ)や暦学(れきがく)に詳しく、馬術や鷹狩りも得意としていた。龍山の叔父たちは三井寺(みいでら)や興福寺(こうふくじ)の大僧正(だいそうじょう)になっていて、叔母は時の将軍、足利義晴(よしはる)の奥方だった。次の将軍になった義輝(よしてる)とは従兄弟(いとこ)同士で、龍山の妹は義輝の奥方になっている。そして、龍山の娘は御陽成(ごようぜい)天皇の女御(にょうご)となり、御水尾(ごみずお)天皇を産んだ。さらに、豊臣秀吉が関白になれたのは、龍山の養子になり、藤原氏を名乗ったからだという。一九らが思っていた以上に偉いお人だったらしい。
話の途中、新三郎はちょっと用があると言って座を外した。新三郎の後ろ姿を見送りながら、一九はお鈴に会いに行くのかもしれないと思った。
「わしも若い頃、龍山公の歌に何か重大な謎が隠されているのかもしれないと思いまして、色々と調べた事がございました。しかし、何も見つけられませんでしたよ」と鷺白は陽気に笑った。
夢吉の手紙を眺めながら、鷺白は何度も首をひねりながら考えてくれた。そして、二番目、三番目、五番目の歌の下の句が、古今集(こきんしゅう)から取ったものだという事がわかった。二番目の下の句は紀貫之(きのつらゆき)の歌、
小倉(おぐら)山みねたちならし鳴く鹿の
へにけん秋を知る人ぞなき
から取り、三番目の下の句は小野小町(おののこまち)の歌、
人にあはんつきのなきには思ひおきて
胸はしり火に心やけをり
から取り、五番目の下の句も小野小町の歌、
わびぬれば身をうき草の根を絶へて
誘う水あらばいなんぞと思ふ
から取ったものだった。
「どうやら、夢吉ねえさんとやらは古今集に詳しいようですな」
鷺白が古今集から拾い出した三つの句を眺めながら、
「謎はその中にあるんでしょうか」と月麿が聞いた。
「うむ。あるかもしれんし、ないかもしれんのう」
「それにしても、小野小町の歌が隠されていたとは驚きだ」と一九が唸(うな)った。
「小町の歌を入れるなんざ、夢吉らしいじゃアねえですか」と月麿は小町の歌を繰り返し読んでいた。
「ところで、この歌はどういう意味なんです」
「人にあわんの方は、好きな人に会えない夜は、好きな人の事を思って、心は走り火のように燃えているというような意味じゃな」
「好きな人に会えねえ夜は心が燃えてるんですか。成程なア‥‥‥もう一つは?」
「わびぬればの方は、浮草のように頼りなく、寂しく暮らしているので、誘う人があれば、どこにでもついて行こうと思うという意味じゃろう」
「その歌は、今の夢吉の心境かもしれんぞ」と一九が言うと月麿はうなづきながら、
「誘う水ってえのは俺の事だろうか」とニヤニヤしながら一九を見た。
「おめでてえ奴だよ、おめえは。もし、そうなら、そろそろ、夢吉も出て来るだろう」
「貫之の歌はだな」と鷺白は説明を続ける。
「小倉山っていうのは京都にある紅葉の名所なんじゃが、その山の峰に立って鹿が鳴いている。その鹿が何年も鳴き続けているのを知っている者はいないという意味じゃ。この歌も一種の遊びじゃ。句の頭をつなげると『おみなへし』となる」
「へえ、紀貫之ってえ人もそんな遊びをやってたんですか」と一九は改めて貫之の歌を見る。
「結構、みんな、遊んでいるようじゃな」
「鹿の歌は関係ねえようだ。どうも、小野小町の歌二つが謎の答えに違えねえ」
月麿は一人で納得していた。
「で、謎の答えは何なんだ」
「そいつは、相模屋と別れて、寂しい独り身になったから、俺に迎えに来てくれって事よ。胸を焦がして待ってるってえ意味じゃねえか」
「まったく、おめえはほんとに、めでてえ野郎だぜ。てめえの都合のいいように勝手に謎解きしてやがる」
「それじゃア、先生はどう思うんですかい」
「そうだな。どうして、下の句だけを使ったかを考えなきゃアならねえな」
「そいつは、上の句を隠して謎にするためだろう」
「それなら、夢吉はどこにいるんだ」
「そいつはわからねえ。謎を解けば夢吉の居場所がわかるに違えねえと思ってたんだが、どうも違うらしい。こいつは居場所じゃなくて、夢吉の気持ちを俺に伝えたかったに違えねえ。夢吉の気持ちがわかったからには、じっとしちゃアいられねえ。俺は夢吉に会って来るぜ」
「会うって一体、おめえ、どこに行く気だ」
「どこって、俺が謎を解いた事を知りゃア、夢吉の方から出て来らアな。とりあえずは中善の夢吉の部屋で待つとするか」
月麿は夢吉の手紙と鷺白が書いた小町の歌を大事そうに懐にしまうと嬉しそうな顔をして帰って行った。
「ちと、早とちりですな」と鷺白は笑った。
「あの野郎、謎の手紙まで持って行きやがった。もう、知らねえぞ」
月麿がいなくなるとお夏も、そろそろ桐屋に戻らなくっちゃと帰って行った。結局、一九一人だけが残された。
「あの謎ですが、古今集から三つの下の句を入れるという事は、龍山公の下の句が三つ消えているという事になりますね。その消えている下の句に謎が隠されているのかもしれません。それと、上の句と下の句がバラバラになっています。どうして、わざわざ、そんな事をしたのか。そこにも謎を解く鍵があるような気がします」
「成程、多分、そうでしょう。しかし、奴が納得して帰ったんだから、放って置きましょう。どうも、お手数をおかけしました」
「いやいや、先生方に来ていただいたお陰で、いい考えがひらめきましたよ。実は近いうちに句集を出そうと思ってるんですが、その句集に龍山公の歌を紹介しようと今、決めましたよ」
「そうですか。それはいい考えです。是非、素晴らしい句集を出して下さい。楽しみにしております」
その後、鷺白は草津に来た歌人の藤之坊堯恵(ぎょうえ)、連歌師の種玉庵(しゅぎょくあん)宗祇(そうぎ)と柴屋軒(さいおくけん)宗長(そうちょう)の話をしてくれた。話を聞いているうちに日が暮れかかって来た。そろそろ、おいとましようと思った時、都八(とっぱち)が顔を出した。今晩は桐屋で夕飯を食べようと津の国屋が待っているからと迎えに来たのだった。
「そうか、また宴会が始まるのか」
「いえ、宴会って程の事じゃアありませんが、宿屋に帰っても飯しかねえですからね。どうせ、酒や料理を桐屋から運ばせる事になるでしょう。それなら、はなっから桐屋で済ました方がいいと」
「成程な。どうです、先生もいかがですか」と一九は鷺白も誘った。
「いやいや、昨夜の今日ですからな。今夜は遠慮しておきましょう」
鷺白はそう言った後、小声で、
「山の神がうるさいんですよ」と両手の人差し指を頭の上に突き出して笑った。
一九は鷺白と別れ、都八と泉水通りへの石段を降りた。
「それにしても、俺がここにいる事がよくわかったな」
「なアに、お夏から聞きましたよ」
「ああ、そうか」
「お夏の奴、月麿にほの字のようですよ。どうして、あんな野郎が持てるのか、俺にはさっぱりわからねえ」
「うむ、いい加減な奴だが、一途(いちず)なとこがあるからな。そういうとこが女から見りゃアいいのかもしれねえな」
「それじゃア、先生、先に行ってて下せえ」
「なんだ、おめえはどこに行く」
「へい、ちょっと、おかよの奴を」
「なに、おかよを迎えに行くのか」
「あいつ、昨夜は宴に出られなかったから、今晩は誘ってやろうと」
「おめえも優しいこったな」
へへへと笑いながら、都八は湯安(ゆやす)の方に走って行った。
「どいつもこいつも浮かれていやがる」
そう言いながら、一九も昨夜の麻吉を思い出していた。