19.湯煙月
土砂降りの雨の中、湯安(ゆやす)に帰ると主人の安兵衛が深刻な顔をして番頭らと何やら相談をしていた。
「例のお客さんがまだ着かないのですか」と一九は聞いた。
「これは先生、お帰りなさいませ」
安兵衛は愛想笑いを浮かべながら、頭を下げた。
「困った事になりました。無事であってくれればいいのですが‥‥‥ところで、先生、今日はいかがでしたか。途中で雨に降られて大変だったでしょう」
「いえいえ、かなりの収穫がありましたよ。眺草(ちょうそう)先生と夕潮(せきちょう)先生が一緒に行ってくれましたので、色々と話を聞く事ができました。それに、若旦那も一緒に来てくれましたし」
「なんだ、おまえも御一緒したのか」と安兵衛は新三郎を見た。
新三郎は返事もしないで、あらぬ方をぼんやりと眺めていた。
「若旦那には町の案内もしてもらって大いに助かっております」
「そうですか。どうぞ、こき使ってやって下さい。まったく、遊んでばかりいて困ります。先生からもよく言ってやって下さい」
「いや、しっかりした息子さんですよ」
「先生にあまり迷惑をお掛けするんじゃないぞ」と安兵衛は息子を睨み、顔を和らげると一九におやすみなさいませと頭を下げた。
部屋に帰る途中、一九はまだ来ない客の事を新三郎に聞いた。
客の名は山崎屋四郎兵衛(しろべえ)といい、信州中野の質屋の旦那だった。先代の頃からの馴染み客で、毎年、今頃の暇な時期に若い妾(めかけ)を連れてやって来る。四年前、草津に来る途中、山賊に襲われて、身ぐるみ剥がされて大騒ぎになった事があった。その時も番頭が先に着いて、部屋の用意をして待っていたがなかなか来ない。ようやく、暗くなってから旦那と妾が素っ裸でやって来た。どこかの宿屋で借りたとかで、手拭い一枚だけを持っていた。翌年はそれに懲りたのかやって来なかった。ところが、去年、新しい若い妾とかったい乞食(こじき)の格好でやって来て皆を驚かせた。新三郎もたまたま、その格好を見たが、手足に汚れた布(きれ)を巻き付け、顔をそむけたくなる程、汚い乞食だったという。そして、着替えた姿を見て、再び、驚いた。汚い乞食娘が、まるで嘘のように美しい娘に変身していた。山崎屋の旦那は自慢気に妾を見せびらかして歩いていたという。
「ほう、それじゃア、今年もかってえ乞食のなりで来たのかな」
「多分、そうでしょう」
「その山崎屋の旦那ってえのは、かなりの年配なのか」
「いえ、まだ四十前です。それ程、いい男には見えませんよ。なんで、あんな男にあんないい女がくっつくんでしょうねえ。勿体ねえ事です」
「お金の力でしょ。どうせ、その女だって見かけはいいけど、つまらない女なのよ」
麻吉がねえというように一九を見た。
「かもしれねえな。しかし、お得意様じゃア放ってもおけねえ。湯安の旦那も大変なこったな」
壷に帰ると誰もいなかった。誰もいないが、部屋の行燈(あんどん)にはちゃんと火が入っていた。
「月麿たちは夢吉の部屋の方に行ったようだな」
「なに話してるのかしら」
「四年間の積もる思いを話してんだろう。それにしても、月麿の野郎、うまくやりやがった。それこそ、夢吉は月麿なんかにゃア勿体ねえ」
「夢吉ねえさん、月麿さんと一緒に江戸に帰っちゃうんでしょうねえ」と新三郎が残念そうに言った。
「そりゃそうでしょ」
「桐屋にいてくれれば、草津の者たちも喜んだのに」
「わちきと豊吉は残るわよ。わちきらじゃア不満なの」
麻吉が怖い顔をして睨むと、新三郎は慌てて、
「いえ、そういう意味じゃ」と手を振る。
「ねえさんたちが残ってくれりゃア、もう、みんな大喜びです。毎晩、遊びに行きますよ」
「いいのよ、無理しなくって」と麻吉は笑いながら、新三郎の背中をたたき、
「夢吉ねえさんにはかないっこないもの」と首を振る。
「ところで、話ってえのは例の事だな」
一九が言うと新三郎は急に真剣な顔をしてうなづいた。
「なに、例の話って」
麻吉が一九と新三郎の顔を見比べる。
「話していいか」と一九が聞くと新三郎はもう一度、うなづいた。
一九はお鈴の事を麻吉に話して聞かせた。
「そうだったの。若旦那も辛いわねえ。でも、よくある話じゃない。ほら、釣り合いの取れるどこかの養女にしてさ、それから祝言(しゅうげん)あげればいいのよ」
「江戸と違って、田舎は色々とうるせえんじゃアねえのか」
「なアに、肝心なのは本人たちの気持ちさ。ここんちだって跡取りはあんたしかいないんでしょ。あんたがどうしてもって気なら、親だって考えるよ。でも、相手の気持ちはどうなんだい」
「それが、まだ、わからねえんです」
「まず、それを確かめなくっちゃアね。それにしても大した娘だねえ。一人でそんなとこに入ってくなんて。わちきにゃアとても真似できないわ」
「俺、ずっと悩んでたんだけど、やっと決心がつきました。さっき、鬼武(おにたけ)さんと立ち合った時、俺は知らずに命を捨てて掛かってました。あの時、ほんとに斬られるって感じたんです。もし、あれが茶番でなかったら、俺は今頃、死んでたかもしれません。正直言って、鬼武さんが刀を捨てた時、助かったって、ほっとしたんです。でも、ほんとに命を捨てる覚悟ができたんです。あの時の気持ちで行けば何でもできると思います。俺、明日、赤岩に行って、お鈴に自分の気持ちを伝えます。その後の事は後で考えればいい。とにかく、お鈴に会って来ます。もしかしたら、振られるかもしれねえけど、言いてえ事は言って来るつもりです」
「そうよ、そうじゃなきゃア男じゃないわ。うまくやりなさいよ」
「はい、真剣勝負のつもりでやります」
新三郎は言いたい事を言うと、さっぱりした顔して帰って行った。
「なんでえ。自分でちゃんと決めてたんじゃねえか」
「自分の決心を先生に伝えて、励ましてもらいたかったのよ。うまく行くといいわね」
「まったく、世話のやける奴らばかりだ」
一九は煙草盆(たばこぼん)を引き寄せ、一服つけた。
「ねえ、先生、いい読本(よみほん)は書けそうなの」
やっと二人きりになれたと麻吉は嬉しそうに一九に寄り添う。
「まあな。かなりのネタは集まった。後、平兵衛(へえべえ)池ってえとこに行ってみてえんだが、明日も雨降りだろうな」
「今日ねえ、みんなで常布(じょうふ)の滝を見て来たのよ。ツツジが綺麗に咲いてたわ。途中に蟻(あり)の門渡(とわた)りって凄い所があってね、その先にある香臭(かぐさ)ってとこで滝を見ながら、お弁当を食べたのよ。そしたら、急に土砂降りに会って大慌てよ。そうそう、帰りにその山崎屋さんの番頭さんと出会って、一緒に帰って来たのよ」
「ほう、そうだったのか。蟻の門渡りに常布の滝か。平兵衛池はその先にあるらしいな」
「遠いの?」
「二里半くれえらしいな」
「そう、それじゃア、お天気になったら、みんなで行きましょうよ」
「そうだな。綺麗な池らしいから、向こうで酒盛りするのも面白え」
「ねえ、先生、どんな話になるの、今度書く読本て」
「まず本の題だが『草津奇談、湯煙月(ゆけむりづき)』ってつけようと思ってるんだ。馬琴(ばきん)の奴が『弓張月(ゆみはりづき)』を出したからな。あっちが為朝(ためとも)なら、こっちは木曽義仲で張り合ってやる。奴に負けねえのを書くつもりさ」
「ねえ、ねえ、どんな話」
「まず、義仲の親父が悪源太義平(あくげんたよしひら)に殺され、二歳の義仲は望月十郎らに守られて草津に逃げて来るんだ。そして、入山(いりやま)村に隠れ、十三歳の時、世立(よだて)ってえとこで元服(げんぶく)して木曽に移って行くんだ。それから、十七年が起って、義仲は京都を目指して出陣する。その頃、義仲には妾が二人いたんだ。一人は巴御前(ともえごぜん)、もう一人は山吹御前だ。山吹御前てえのは、望月十郎の子供に御殿助(みどののすけ)ってえのがいて、その娘なんだ。義仲が義経(よしつね)の軍に敗れて戦死した後、山吹御前は義仲の子、駒若丸(こまわかまる)と一緒に御殿助に助けられて入山村に戻って来る。眺草先生の話だと、山吹御前は入山村に来てから男の子を産んだらしいが、それだと話が面白くねえ。やっぱり、山吹御前に駒若丸、そして、お筆(ふで)(『ひらがな盛衰記』に出てくる娘)も出なけりゃアつまらねえや。入山村に隠れてから九年が経って、鎌倉の将軍頼朝(よりとも)が浅間山で狩りをする。富士山じゃなくて、本当は浅間山だったらしい。そこでご存じの曽我兄弟(そがきょうでえ)の敵(かたき)討ちがあって、その後、頼朝は草津にやって来るんだが‥‥‥なんだか、疲れたよ。寝ながら話そう」
「そうね、そうしましょう」と麻吉は部屋の隅に積まれた布団を引っ張り出す。
一九が脱いだ着物を綺麗にたたみ、自分も着物を脱いで、一九の隣りに潜り込む。
「やっぱり、草津は涼しいわね。蚊はいないし、朝晩は涼しいし、ほんと、来てよかった。ねえ、先生も夏の間、こっちにいて、ここで読本を書けばいいのに」
「そうはいかん。そうのんびりしてたら、角(つの)を出すのがいるからのう」
「そうか、先生、若いおかみさんを貰ったんだっけ。すっかり忘れてたわ。年が二十も違うんですってね。どうなの、若いおかみさんて、やっぱり、いい?」
「若えと言ったって、おめえと同じくれえさ」
「あら、そう。そういえば、わちきも先生と二十も離れてるのか。でも、先生は若いわよ。若い時、あんなに遊んでたのに、ほら、もうこんなになって」
「なアに、おめえがいい女子(おなご)だからさ」
一九は麻吉の肩を抱き寄せる。
「ねえ、続きを聞かせて。京伝先生も鬼武先生も読本をいっぱい書いてるけど、読本て何だか難しいでしょ。わちきなんか読めないわ。でも、絵だけ見てても面白そうじゃない。ねえ、山吹御前と駒若丸はそれからどうなるの」
「聞かせてと言ってもなア、そんなとこを握られてたんじゃ、うまく話せねえよ」
「やだア、先生だってさわってるくせに」
「なあ、おめえ、お夏のここ、見た事あるか」
「急になに言ってんのよ。男の人ってどうして、そういうのに興味あるんだろ」
「噂には聞くが見た事ねえからな」
「まったく、しょうがないねえ。先生たちが来る前にね、お夏さんと金毘羅さんの滝の湯に入ったのよ。その時、じっくりと見せてもらったわ。わちきもあんなの初めて見たけど、ツルツルしていて綺麗なもんだったわ」
「ほう、ここがツルツルか。一度、拝んでみてえもんだな」
「なに言ってんの。ただ、毛がないだけじゃない。なんなら、わちきの剃って見せましょうか」
「おう、そいつは面白え、俺が剃ってやる」
「いやね、本気にしないでよ。お夏さんみたいに生まれつきならいいけど、剃った後が大変でしょ。お髭みたいにざらざらしてたらみっともないじゃない」
「そりゃ確かにそうだ」
「お夏さんは『かわらけ』だけど、お糸さんの方は『牡丹餅(ぼたもち)』なのよ。知ってた?」
「なに、お糸は牡丹餅?」
「そう。もう毛が凄いの。真っ黒けなのよ。それでも、お客さんが怪我しないように、あの回りだけは綺麗に抜いてるらしいけどね」
「ほう、かわらけお夏に牡丹餅お糸か。ところで、豊吉はどんなだ」
「豊吉のはね、なんていうか、好きそうな赤貝ってとこよ。ほんとに好きなんだから」
「わかるよ、好きそうな面をしている。あっ、そうだ。夢吉はどうだ。知ってんだろ」
「先生たちが来る前、一緒に滝の湯に入ったけど、夢吉ねえさん、四年前と全然、変わってなかったわよ。肌なんか真っ白で、ツルツルなんだから」
「やはり、いい体してるのかい」
「女から見てもうっとりする程よ」
「くそっ、月麿なんかにゃア勿体ねえ、畜生め」
「やだ、痛いってば」
「おめえのはさしづめ、食べ頃の柔らけえ毛の生えた桃ってとこだな」
「やだア」
外は土砂降り、二人は他愛ない事をしゃべりながら、しっぽりと濡れて行った。